桑田忠親著作集第三巻「戦国武将(二)」の解題は米原正義氏。
米原氏は、桑原忠親の授業の回想を文に書いておりました。
それを読んでいると、この第三巻自体の奥行きを感じます。
『戦国武将の手紙』の授業風景を回想から引用。
「まず読みである。読めない箇所があってもそう簡単には教えてもらえない。
・・ややあって先生から教えられ、ほっとする。おかげであまり進まない。」
「重要語句・歴史的用語などの説明はことにくわしく、・・板書される。
『笑止』を文字通り、笑を止めるので『気の毒』と解釈する
ことを知ったのも、この元就の教訓状を教わったときであったし、
歓楽が病気の意味だと知った」
「それにしても先生の話で最も参考になったのは先輩の活躍の様子であった。
・・在学中に特に多く、すぐれた先輩の研究について、研究態度、
その他の話を聞いた。・・・・
つたない論文を発表したときでも、
『 あんな論文では駄目だ 』と言われたことは一度も聞いたことがない。
『 論文には良いところが必ずある 』といわれ、
勇気と自信を持ったことであった。・・・・・
何だか解題にならない解題を書いているようだが、
そうではなく、要するに『戦国武将の手紙』は、
一朝一夕にできたものではなく、こうした授業の中から、
長い年月を経て生まれたものである、と言いたかったのである。」(~p355)
こうして、解題を読んでから、『戦国武将の手紙』の「はしがき」を見ると、
何だかこの授業を受けている学生へと語りかけているような箇所がある。
「・・・近頃は、若い人は、もちろん、おとなでも、
墨でしたためた走り書きや、候文体に接触する機会に恵まれないから、
自然と、そうした体験に欠けてくる。
歴史評論家や社会科の教師で、古文書が読めなかったり、
ほんものと偽ものとの区別が判定できない人も、ざらにいるし、
専門の歴史家でも、自分の専攻する時代以外のものは、
そんなにわかるものではない。
わかったような振りをする学者ほど、
なんにもわかっていない場合が多い。
学問とは、元来、そんなものである。
だから、素人の歴史趣味家でも、
格別、悲観するに当たらない。
要は、古文書に親しむ度数が物を言うのである。 」(p187~188)
ここでは、授業を受け専門の学問を究める人もあるだろうし、
卒業して、社会科の教師になる人もあるだろうけれども、
また、畑違いの職業につくかもしれないが、そんなのことは、
『 格別、悲観するに当たらない 』と語りかけているようでもあります。
米原正義氏の解題には、こんな箇所もありました。
「 授業の途中、先生の武勇談が出る。今でもその殆どを覚えていて、
なかなか面白い話があったが、内容を紹介する紙数がない。 」(p355)
第三巻をパラパラひらいていると、
『 初陣にみる戦国武将の生き方 』(p338~344)などは
そんな『 なかなか面白い話 』を聞けた気分になります。
勿論、全文を読んでいただきたいのですが、
ここには最後の箇所を引用しておくことに。
「 武将にとって、初陣というものは、
元服式や婚礼よりも大切なものであるから、
千軍万馬の間を往来した戦国の名将は、
大抵、14か15、6で、これを体験した。
信玄、謙信、信長など、みな、この線を行っている。
ところで、・・・織田信長も、二代目になると、次男の信雄(のぶかつ)
三男の信孝など、みな、秀吉に滅ぼされたり、追放されたりし、
三代目の織田秀信(信長の嫡孫)は、
豊臣家臣となって生きながらえたが、
・・関ケ原の戦いに、石田三成に味方したのはいいにしても、
岐阜の居城を徳川勢に攻められたとき、19歳で初陣を強いられた。
そのとき鎧かぶとを、どれにしようかと、
カッコいいのを選びあぐねているうちに、
戦機を逸し、城を攻め落され、降参している。
また、稀世の英雄豊臣太閤秀吉も、二代目になると、
ひどいものである。大坂夏の陣で、・・・
譜代の家臣に励まされ、いでたちも美々しく、
大坂城の桜門を出て、天王寺に向かって出陣しようとした。
これが総大将秀頼にとって、まさに晴れの初陣であった。
しかし、秀頼は、すでに23歳にもなっていたが、
実戦の経験は皆無である。そのくせに、女色のほうにかけては、
正妻の千姫のほかに、愛妾も貯え、子も2人ほど産ませて、一人前だが、
母公淀殿の教育よろしからず暖衣飽食、遊堕に流れ、
徒(いたず)らに肥満していた。10万の将兵を
統率するどころのさわぎではない。
教育ママと一緒に、親ゆずりの大坂城内で
自害できただけでも、上々であった。 」(p344)