和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

振り出しに戻っての『俳句』。

2022-04-12 | 本棚並べ
丸谷才一著「思考のレッスン」のレッスン②に
中村さんに教わったこと、というのがあります。

『 既成の約束事にこだわらない、
  すべて振り出しに戻って考えるという、
  それが僕が中村さんから教わったことです・・ 』
              ( p79・単行本 )

はい。それでは、『俳句』の振り出しに戻ってみることに。
分かりやすかったのは、柳田国男の第一高等学校での講演。
その『生活の俳諧』の、はじめの方にありました。

「 俳句という言葉は、明治以来の新語かと思われる。
  日本では第一高等学校を一高という類の略語が通用しているから、
  『俳諧の連歌の発句』を略して俳句というのも気が利いている。
  しかしそのためにわが芭蕉翁の生涯を捧げた俳諧が、
  一段と不可解なものになろうとしていることだけは争われない。 」
                ( p196・新編柳田国男集第9巻 )

ほかには、重複するかもしれませんが
尾形仂(つとむ)氏の、文からも引用。

「近世を通じて、俳諧といえば主として連句をさしていたが、
 正岡子規は、本来連句の巻頭の句という意味でそう呼ばれ
 てきた発句を独立させて≪ 俳句 ≫と呼称を改め、

 これをかれの理解した西欧流の文学観にもとづいて、
 個人の感情を表現する文学として新生させるに際し、
 『発句は文学なり、連俳は文学に非ず』(「芭蕉雑談」明治26)
 と言って、連俳つまり連句の文学性を否定し、これを切り捨てた。

  ・・・・・・・・

 だが、≪ 連俳非文学論 ≫の提唱者である子規自身、
 実際には明治23年から同32年にかけて鳴雪や虚子・碧梧桐
 その他と20点以上に上る連句を試みており・・・

 『自分は連句といふ者余り好まねば古俳書を見ても 
  連句と読みし事無く又自ら作りし例も甚だ稀である。
  然るに此等の集にある連句を読めば
  いたく興に入り感に堪ふるので、終には、
  これ程面白い者ならば自分も連句をやって見たいと
  いふ念が起って来る』(「ほととぎす」明治32・11)
 
 と言うに至っている。」( p360~361「寺田寅彦全集第12巻」解説 )


漱石と子規との関係では、
尾形仂・大岡信の『芭蕉の時代』(朝日新聞社)のなかで
大岡さんが面白い指摘をしておりました。
最後は、そこを引用しておきます。

大岡】松山にいる漱石が東京の子規のもとへ、
   ちょうど月並の宗匠のところへ送るようにして、
   句をつくっては送りますね・・・・・・

   漱石はときどきわざとふざけたような句をつくって、
   子規に怒られるだろうことを見越した上で送っているふしがありますね

   それは子規にとってずいぶんプラスだったのじゃないかな。
   突っぱって一直線にどこかへ行きそうなときに、
   横合いから漱石みたいな、わりと余裕のある友だちが
   妙ちくりんな句を送ってきたりする。

   子規は病床でたぶん笑いながらその句を直したりするんでしょう。
   そういうことがあって、子規自身のつくる作品がよくなっていく
   んですよね。

   短歌についても、明治33年前後、びっくりするぐらい
   月々よくなっていく、写実的なんだけれども、
   その写実のなかにいろんな要素がはいってくる。・・・

   ああいうものの養いになっているのは、
   虚子や碧梧桐のような後輩、中村不折のような画家の友人、
   そしてもちろん漱石など、親密な交わりの友人たちを
   通して子規が感じている感触だったのではないか。

   子規はそういうものを知らず知らず自分のなかに溶けこませ、
   そして自分がどんどんふとっていく、そういう友だちづきあいが、
   あの当時にはありえて、それがちゃんと詩の問題に結びついていた。
   ・・・・

尾形】 自分の作品を受けとめてくれて悪口なりなんなり
    言ってくれる人がいることを前提に詠むということは、
    詠むほうにとってもうれしいことです。

    だから子規は漱石の俳句を臆面もなく批評する。
    先生づらして・・・・・。(笑)
                    ( p217~218 )
    

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 芸術などと、気負わず | トップ | ランドセルとリュックサック。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本棚並べ」カテゴリの最新記事