「すがすがしい朝、ジョギングで汗を流し、果物を食べてコンピュータのスイッチを入れる。メールボックスを開けると、きょうもエロ勧誘らしきメールが大量に届いている。・・・」(「夜露死苦現代詩」p198)という言葉を見たら。おいおい、どこでもこうなのか。とついつい思います。
けれども、こうして活字であらためて迷惑メールを語られると
思い浮かぶ詩がありました。
それは田村隆一の「毎朝 数千の天使を殺してから」という題の詩なのです。
「毎朝 数千の天使を殺してから」
という少年の詩を読んだ
詩の言葉は忘れてしまったが
その題名だけはおぼえている さわやかな
題じゃないか
おれはコーヒーを飲み
人間の悲惨も
世界の破滅的要素も
月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない
数百万部発行の新聞を読む
・・・・・・・
少年の朝と
おれの朝とは
どこがちがうのか?
・・・・・
殺してから
きみはどうするんだ?
歩いて行くんです
どこへ?
とても大きな橋がかかっている河のそばへ
毎朝?
ええ 毎朝
手が血で汚れているうちに
・・・・・・・
・・・・・・・
そうか
数千の天使を殺さないと
大きな橋が目に見えてこないのか
真昼の世界と
影の世界を
つなぐ
大きな橋
・・・・・・・
・・・・・・・
田村隆一といえば「数千」という言葉からの、連想で初期詩篇の詩「四千の日と夜」がまず思い浮かびます。その詩の最後の四行はこうでした。
・・・・・・・・・
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない
ここで、私には井上靖の詩「猟銃」が思い浮かびます。
なぜかその中年男は村人の顰蹙を買い、彼に集
る不評判は子供の私の耳にさえも入っていた。
ある冬の朝、私は、その人がかたく銃弾の腰帯
をしめ、コールテンの上衣の上に猟銃を重くく
いこませ、長靴で霜柱を踏みしだきながら、天
城への間道の叢をゆっくりと分け登ってゆく
のを見たことがあった。
それから二十余年、その人はとうに故人になっ
たが、その時のその人の背後姿は今でも私の瞼
から消えない。生きものの命絶つ白い鋼鉄の器
具で、あのように冷たく武装しなければならな
かったものは何であったのか。私はいまでも都
会の雑踏の中にある時、ふと、あの猟人のよう
に歩きたいと思うことがある。ゆっくりと、静
かに、冷たく――。そして、人生の白い河床を
のぞき見た中年の孤独なる精神と肉体の双方
に、同時にしみ入るような重量感を捺印するも
のは、やはりあの磨き光れる一箇の猟銃をおい
てはないかと思うのだ。
こうして、井上靖の詩を引用すると、またしても田村隆一の詩を引用したくなります。
たとえば、詩「細い線」。
きみはいつもひとりだ
涙をみせたことのないきみの瞳には
にがい光りのようなものがあって
ぼくはすきだ
きみの盲目のイメジには
この世は荒涼とした猟場であり
きみはひとつの心をたえず追いつめる
冬のハンターだ
・・・・・・
・・・・・・
きみが歩く細い線には
雪の上にも血の匂いがついていて
どんなに遠くへはなれてしまっても
ぼくにはわかる
きみは撃鉄を引く!
ぼくは言葉のなかで死ぬ
こうして、井上靖の詩と田村隆一の詩とを結びつけて紹介してみたかったのです。
けれども、こうして活字であらためて迷惑メールを語られると
思い浮かぶ詩がありました。
それは田村隆一の「毎朝 数千の天使を殺してから」という題の詩なのです。
「毎朝 数千の天使を殺してから」
という少年の詩を読んだ
詩の言葉は忘れてしまったが
その題名だけはおぼえている さわやかな
題じゃないか
おれはコーヒーを飲み
人間の悲惨も
世界の破滅的要素も
月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない
数百万部発行の新聞を読む
・・・・・・・
少年の朝と
おれの朝とは
どこがちがうのか?
・・・・・
殺してから
きみはどうするんだ?
歩いて行くんです
どこへ?
とても大きな橋がかかっている河のそばへ
毎朝?
ええ 毎朝
手が血で汚れているうちに
・・・・・・・
・・・・・・・
そうか
数千の天使を殺さないと
大きな橋が目に見えてこないのか
真昼の世界と
影の世界を
つなぐ
大きな橋
・・・・・・・
・・・・・・・
田村隆一といえば「数千」という言葉からの、連想で初期詩篇の詩「四千の日と夜」がまず思い浮かびます。その詩の最後の四行はこうでした。
・・・・・・・・・
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない
ここで、私には井上靖の詩「猟銃」が思い浮かびます。
なぜかその中年男は村人の顰蹙を買い、彼に集
る不評判は子供の私の耳にさえも入っていた。
ある冬の朝、私は、その人がかたく銃弾の腰帯
をしめ、コールテンの上衣の上に猟銃を重くく
いこませ、長靴で霜柱を踏みしだきながら、天
城への間道の叢をゆっくりと分け登ってゆく
のを見たことがあった。
それから二十余年、その人はとうに故人になっ
たが、その時のその人の背後姿は今でも私の瞼
から消えない。生きものの命絶つ白い鋼鉄の器
具で、あのように冷たく武装しなければならな
かったものは何であったのか。私はいまでも都
会の雑踏の中にある時、ふと、あの猟人のよう
に歩きたいと思うことがある。ゆっくりと、静
かに、冷たく――。そして、人生の白い河床を
のぞき見た中年の孤独なる精神と肉体の双方
に、同時にしみ入るような重量感を捺印するも
のは、やはりあの磨き光れる一箇の猟銃をおい
てはないかと思うのだ。
こうして、井上靖の詩を引用すると、またしても田村隆一の詩を引用したくなります。
たとえば、詩「細い線」。
きみはいつもひとりだ
涙をみせたことのないきみの瞳には
にがい光りのようなものがあって
ぼくはすきだ
きみの盲目のイメジには
この世は荒涼とした猟場であり
きみはひとつの心をたえず追いつめる
冬のハンターだ
・・・・・・
・・・・・・
きみが歩く細い線には
雪の上にも血の匂いがついていて
どんなに遠くへはなれてしまっても
ぼくにはわかる
きみは撃鉄を引く!
ぼくは言葉のなかで死ぬ
こうして、井上靖の詩と田村隆一の詩とを結びつけて紹介してみたかったのです。
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