本棚を作り、その空白の棚に、本を並べてゆく。
とりあえず、本棚が埋まった時点で、もういいや。
空白の棚に、本を詰めてゆく作業はワクワクしたのに。
いざ、本が並ぶと、あの本の上の棚には、何を置こう、
右隣・左隣の棚には何をとあれこれ思い描くのが終了。
まるで、空白の棚に、言葉を詰め込みすぎたような気分になる。
それはそうと、庄野潤三の語る佐藤春夫です。
庄野潤三著「文学交遊録」(新潮文庫)をあらためてとりだす。
そこに、読まずにあった、第6章『 佐藤春夫 』をひらく。
『 詩をうたって聞かせて頂いた 』という箇所がある。
九州での学生時代に伊東静雄氏を訪ねる場面なのでした。
「・・・秋の試験休みに帰省して、堺の伊東静雄先生を訪ねた折、
雑誌で読んだ佐藤春夫の『 写生旅行 』がよかったという話をしたら、
伊東先生も読んでいて、二人で『 写生旅行 』をたたえたことがあった。
もともと佐藤春夫は現代の文学者のなかで
伊東先生が最も尊敬する人であった。先生の二畳の書斎で、
春夫の詩集『 東天紅 』のなかから『 りんごのお化(ばけ) 』
という詩をうたって聞かせて頂いた・・・・ 」(p162)
この章のなかに、三島由紀夫も登場しておりました。
庄野潤三がはじめて雑誌に掲載された『 雪・ほたる 』の箇所でした。
「 三島由紀夫は『 雪・ほたる 』を読んでいて、
人なつこく私に話しかけた。
ご自分で気に入っているところを朗読して下さいという。
自作を朗読するというようなことは気恥しいので、
三島由紀夫が何度もねだったけれども、朗読はしなかった。 」(p175)
ここでは、『 気恥ずかしいので・・朗読はしなかった 』とあります。
庄野潤三の家族が、大阪から東京へ引越してきた際に歌がありました。
「・・越して来て一年半くらいたったころに、
この子(長男)が佐藤先生夫婦の前で『 お富さん 』を歌った。
そのころ流行(はや)っていた歌謡曲で、
『 死んだ筈だよお富さん 』という歌であった。
長男はこのとき三歳で、最後の『 ゲンヤーダナ 』というところが、
『 ゲンヤーナヤ 』というふうになって、
佐藤先生も奥さんもふき出された。
・・・先生は甚(はなは)だ興趣を覚えるというふうに
この子を見守っておられたばかりか、歌に終ると、
『 よく出来たね 』といって、賞めてくれた。・・・・
・・・・子供が『 お富さん 』を歌ったのは、
このとき一回だけであったが、先生も奥さんも
いつまでも覚えていて、その後、私たちの顔を
見る度にその子のことを尋ねて下さった。
『 小生、自然と赤ん坊とが一番好きです。
人間の最も自然なものが赤ん坊なのですから
当然の事かと思ひますが、人生いかに生く可(べ)き?は
小生によれば赤ん坊の如(ごと)く生きよだと思ひます 』
これは、戦後、先生御夫婦がまだ信州佐久に居られ頃に、
先生から頂いた手紙の一節である。・・・・・
草木や川や雲をめでるように、先生は子供をめでて居られた・・」
(p183~p184)
はい。『 明夫と良二 』などの作品で、
男の子が、唄いだす場面があることを、
その雰囲気が、印象深く残ったことを、
あらためて思い浮かべ反芻してみます。
この章ではさらに、
『 静物 』を書きあぐねている庄野氏に
佐藤春夫が語りかける場面があるのですが、
それは、次回のブログで取り上げてみます。
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