和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「学園紛争」と「知的生産の技術」。

2019-08-15 | 本棚並べ
加藤秀俊による
梅棹忠夫著「知的生産の技術」解説
(「ベストセラー物語」下)のはじまりのページに、
こうあります。

「1969年の夏、日本ではなにが起こっていたか。
いわゆる『学園紛争』である。わずかの例外をのぞいて、
日本の大学では全共闘が結成され、白や赤や黒のヘルメットを
かぶった学生たちが鉄パイプの棒を持って・・・」(p69)

さて、加藤秀俊氏は、
この全共闘と「知的生産の技術」とをむすびつけて
ベストセラーの解説をはじめておりました。
ちなみに、その文は、「知的生産の技術」から
の引用をもってはじまっておりました。
どんな引用だったかというと、こんな引用からでした。

「『うけ身では学問はできない。
学問は自分がするものであって、
だれかにおしえてもらうものではない』」


こうしてはじまる加藤氏の文は、
次のページに、こう指摘されております。

「そうかんがえてみると、
全共闘と梅棹忠夫は、ほぼ同時期に、
まったくおなじ教育への批判をこころみていた、
というふうにもみえる。もちろん、
全共闘は、わけのわからない泥沼のなかにふみこんで、
不定形な感情の発散をくりかえすことになり、
あまり生産的な貢献をすることができなかった。
それにたいして、梅棹忠夫は、きわめて具体的、
かつ説得的に、いまの日本の知的訓練の欠陥を
この本をつうじて指摘している。その点では、
両者のあいだには大きなちがいがある。
 ・・・・・・・・
べつのいいかたをしよう。もしも、
日本の教育のなかで、知識はどんなふうにして
あつめたらいいのか、ノートはどう使うべきか、
じぶんで発見した事実はどうまとめたらよいのか、
といったような、学問をするにあたっての基本技術が
じゅうぶんにゆきとどいていたならば、『学園紛争』は
あんなふうにひろがることもなかっただろうし、また、
『知的生産の技術』がベストセラーになる、といった
事態もありえなかっただろう・・・」

加藤秀俊氏の指摘はつづきます。

「・・この本には、いささかうんざりしながら、
それでも、見るに見かねて書いているのだ、
という著者の気分がみなぎっているように見うけられる。
なにをいまさらこんなことを、といった著者の
つぶやきが行間にきこえるような部分もいっぱいある。
 ・・・・・
ほんとうは、この本に書かれていることの大部分は、
大学の一年生のときに、
ひと月ほどでやっておくことのできることである。
その、あたりまえの基礎ができていないから、
やむをえず、梅棹忠夫はこの本をかいた。」
(p70)


はい。この機会に川喜田二郎編著『雲と水と』(講談社)。
紛争の団交のノウハウを、当事者として体験させられており、
そこからの引用。

「すでに彼らいわゆる団交に類したものをご経験の方には
めずらしくないでしょうが、光景はざっとつぎのようなものです。

まず教壇にあたるところが、
ツルシ上げ兼アジテーターの活躍舞台です。
それに向かいあったたくさんの机椅子のうち、
前のはあらかじめほとんど、ツルシ上げ側・・・。
だから反対派や中立派は、後のほうに追いやられており、
ツルシ上げられている人びとを助ける方法がありません。

つぎに、一方的に議長団を独占するのが、
いわゆる『団交』計画者側の、欠かせない条件です。
こうしておいて、・・一方的にわれわれを
ツルシ上げようとしたのです。
彼らの質問に答えることのみゆるされ、
反対質問はゆるされないのです。
また質問に答えないと罵倒のかぎりをつくされ、
答えても彼らの気にくわない答えだとヤジ、罵声で
聞えないぐらいやられてしまうのでした。

このような舞台セットの中で
一方的にやられると、どんな人間もバカに見えてきます。
そして何か悪いことばかりしているかのような印象を、
傍観する第三者にも与えることができます。

それに人間は、わずかないいそこないや
表現のしぞこないもなしに応答することは、ほとんど不可能です。

そのわずかのエラーをも見逃さず、
議長団は切りこんできます。そのうえにもっと
ひどいことすら行われることもあります。
たとえば、
『私が文部大臣だったら、その意見には同意するかもしれない』
といったとしましょう。・・・彼らは、
『私が文部大臣だったら』とか『かもしれない』の部分は切りすて、
私が『同意した』というふうに、意図的にヒン曲げて勝手に
確認したことにします。そしてそれを踏み台にして、
『同意しておきながら、どうしてコレコレのことが認められないのか?』
と、また迫ってくるわけです。一言でいうなら、
意図的に自分たちに都合よく曲解して聞くわけです。

いずれにしても、こんなやり方でやられていると、
本人も頭がおかしくなってくるばかりでなく、
第三者にもツルシ上げられている人間が
ほんとうに悪者で、追及されてボロをだして
きたように映ずるものです。・・・」
(p18~19)


う~ん。『都合よく曲解して聞く』ひとたち。
日本の『都合よく曲解して聞く』報道機関を、
選別できる『知的生産の技術』を身につける。
はい。『うけ身では学問はできない』という、
梅棹忠夫の指摘は、現在でも生きております。

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