和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

知る人ぞ知る、事実だった。

2021-12-25 | 本棚並べ
「ですから、大学の学科にも栄枯盛衰がある。
 大学の学科なんて小さいですから、
 レストランと同じでシェフが変われば、
 味もあっという間に変ってしまう。」

はい。平川祐弘氏の言葉です。
(p143・粕谷一希著『座談・書物への愛』藤原書店)

平川祐弘氏の雑誌連載の自伝にも
同じような箇所がありました。

「だが、有名店もシェフが代われば味も落ちる。
 それと同じで、学科の栄枯盛衰はめまぐるしい。
 
 佐伯彰一氏が『東大比較も、島田(謹二)先生から
 直接教えを受けた世代がいなくなると、後はもう
 持たないな』と言った。その通りになった。
 駒場学派の影はたちまち薄れた。
 主任には横綱相撲がとれる人が欲しい。
 上に仕事上の立派なモデルがいれば、後輩はついてくる。」

(p357・月刊Hanada2021年12月号)

もどって、粕谷・平川両氏の座談では

平川】 そうです。大学や研究所や学科は新しくできた
    最初が一番面白いんですね。新しい視界が開け、
    新鮮な研究が出来るんです。駒場もそうでした。
    京大の人文研も、桑原武夫の時代は盛んでした。
      ・・・・・・
    結局、札幌農学校のように、草創期が一番良い。
     (p139)

こういう箇所を引用していると、
ああ、そうかと連想がひろがります。
新しい視界がひろがる。けれども、手が追いつかない。
遅くとも、何とかたぐり寄せようとする。
ここでは、二人。
芳賀徹とともに、梅棹忠夫を思い浮かべます。

どちらも、遅筆でした。
まずは、芳賀徹について

「私(平川祐弘)が先に著作集を出すことになった時、
 勉誠出版に『【芳賀徹著作集】も出してはいかが』と声をかけた。
 すると『芳賀先生は仕事が遅いから』と難色を示し、
 『【平川祐弘著作集】の第一回配本が一月遅れたのも
 芳賀先生の解説が遅れたからです』と言った。
 しかし芳賀が『西欧の衝撃と日本』のために寄せた一文は、
 学問の大局を描いてすばらしい。」(p357・12月号)


平川祐弘氏の文章は「注」も読ませます。

「60歳で定年で東大を去るに際し、私たち2人は
『叢書比較文学比較文化』を企画した。この時も
芳賀が平然と遅れたのだが、中央公論社の平林さんから、
私が遅滞の責任者であるかのごとく電話で叱責された。
あまりに理不尽な事に思い、出版記念会の席で、
それについて公然と芳賀を非難した。

私は話の下書きを用意する人間で、その場の感情に
流されることはない。が語調がきつかったせいか、
来会者はしんとなった。ツルタは
『立食パーティーの座が白けて、
 芳賀の方に寄る人と平川の方に寄る人と二派に分かれた』
などと大袈裟な観察を後で述べた。
すると亀井俊介が笑った。
『ああ平川が言っても、あの二人は仲がいいんだから』。」
(P356・Hanada12月号)

歯に衣着せぬ平川氏の文だけを引用すると間違うので、
ここは、同じ号の別の箇所も引用

「学者の価値を測る基準はいろいろある。
・・・・
芳賀には、時間厳守などの外的要請より大事な、
内的要請があった。心の泉から豊かに湧き出す人の文章は、
『アステイオン』等に寄稿する他の人の知識本位の文章と
風格が異なる。品位ある随筆は芸術品として結晶する。そこが尊い。」
(P354・同上)

ちょっと、遅筆ということで引用していたのですが、
寄り道して、この引用している12月号の連載の最後は
平川祐弘による、芳賀徹へ弔辞が載せてあるのでした。
そこから、ここを引用。

「父君芳賀幸四郎教授の同僚小西甚一先生は
 幸四郎教授の最高傑作は息子の徹と申しました。」

「手紙に限らず、丁寧に推敲された芳賀の文章は
 言語芸術として香り高い。絶品です。
 しかし徹という人間はさらに高雅でした。
 私どもは君の如き優れた人を友とし得たことを
 生涯の幸福にかぞえます。・・・・」(P361)


はい。芳賀徹について長くなりました。
つぎ、梅棹忠夫の遅筆を引用してみます。
加藤秀俊著「わが師わが友」(c・books)より

「北白川の梅棹邸には、わたしをふくめて、
何人もが足をはこび、深更にいたるまで、きわめて
雑多な議論をつづけた。例外なしに酒を飲んだ。
 ・・・・・
そんなある晩、突如として伊谷純一郎さんがとびこんできた。
何の論文だったか忘れたが、梅棹さんの原稿だけがおくれて
いるために本が出ない、早く書け、というのが伊谷さんの用件であった。

梅棹さんは、大文章家であるが、執筆にとりかかるまでの
ウォーミング・アップの手つづきや条件がなかなかむずかしい
かたである。一種のキツネつき状態になって、そこではじめて、
あの名文ができあがる。

伊谷さんもそのことはご存知だ。ご存知であっても、
梅棹論文がなければ本ができないのであるから、
これもしかたがない。
その伊谷さんにむかって、梅棹さんは、あとひと月のうちに
かならず書く、といわれた。伊谷さんは、その場に居合わせた
わたしをジロリと睨み、加藤君、おまえが証人や、
梅棹は書く、と言いよった、おまえは唯一の証人やで、
とおっしゃるのであった。・・・・」(P84)

うん。藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)
からも引用しておきます。

「原稿依頼のファイルはつぎつぎと書斎に持ちこまれたが、
いったんはいってしまうと、なかなか出てこなかった。
・・・しめきりまでに原稿といっしょに返ってくるのは、
二、三割ではなかっただろうか。

しめきりがせまって、編集者から催促の電話が何度もかかり、
しまいに京都までおはこびいただいたが、ついに完成しなかった
ものもある。一年、二年ともちこし、とうとう出版社のほうから
とりさげられたものや、十年、二十年をへて、いまだにそのまま
眠っているものもあるようだ。
『遅筆の梅棹さん』の評判は、わたしなどがくる前から、
知る人ぞ知る、有名な事実だったのである。」(P238)

はい、これが「知的生産の技術」の著者のことなのでした。


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