安房郡の関東大震災でも、流言蜚語がありました。
「・・当時食糧不足、暴徒襲来、海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され
人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった。・・ 」
人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった。・・ 」
( 『大正大震災の回顧と其の復興』上巻のp894 )
はい。ひとつひとつを、別けてゆけば分かりやすい、今回は
『 海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され 』を取り上げてみます。
武村雅之氏は、その著書で関東地震の特徴を指摘して
「 つまり余震活動は文句なく超一級といえるのである。 」
「 大きな地震の後は揺り返しに注意しろとよく言われるが、
関東地震はその中でも特に注意が必要な地震だったのである。 」
(以上はp85「関東大震災 大東京圏の揺れを知る」鹿島出版会2003年より)
直下型地震に際して、多くの方が家屋の下敷きになっている。
その方々を助けるのか、津波を警戒し、まず逃げるのか。
容易に判断を下しかねる場面に遭遇するかもしれないわけです。
安房郡の関東大震災では、実際にさまざまな場面が展開しておりました。
その歴史を、反芻しておくことの貴重さを思います。
ここには、『大正大震災の回顧と其の復興』上巻から、
その場面を今回は二人の人物から紹介しておくことに。
火災で多くの家屋が焼失した船形町の
町長正木清一郎(齢70歳に近き)について、小学校の先生が
記録されております。
「 翁(町長)曰く海嘯との叫びがするから・・・・
僕(町長)が海岸に参って様子を見て来るからとの言葉、
御老体のこと危険なるべきことを申上ぐると、
決して心配はない海嘯は沖合に見えてから逃れることが出来るものだ。
僕に心配なく・・避難するがよいとのことにて其の言に従ひました。
間もなく翁は別邸に来り海嘯は最早来ない心配はない。
只だ心配なのはあの大火災だ風向きによっては
町の大部分は焦土と化してしまうと心配されて居られた。」(p911)
はい。船形町は、漁師町で、地形的にも山の傾斜が海岸へとつづき、
高い箇所へ逃げやすく、しかも町長はその漁師町の代表でした。
つぎには、中川良助氏の回想文から引用。
中川氏は家屋の下敷きになったのを助けられ
「半戸板に乗せられ・・北條病院の庭に運ばれた。」(p851)
そこへ、「病中の家内が杖にすがって尋ねて来た。」
「烈しい余震は絶間なく揺れて来る。
今になってもまだ家の倒れる音がする。続いてツナミ騒ぎ、
今に押し寄せて来るといふ風説だ。
『 オカーサマヨー オカーサマヨー 』と呼ぶ子供の声が遠く聞へる。
家内が子供等を呼び寄せて、
『 お父さんはこんな大怪我をしてゐるのだから、
どんな事があってもお母さんはここから一寸も動けない。
だから若しツナミでも来たら、お母さんやお父さんには
かまはずどこへでも遁げられる所へ遁げなさい。
決してお父さんお母さんを気にかけて、
遁げ後れる様な事があってはならないよ 』
と堅く言ひ含めて悲愴な覚悟をきめて居る。夜は沈々と更けて行く。
全身の痛みに寝返りも出来ない『 苦しい 』そこで家内が
病身を押して私の上に四つ這ひとなって私の全身を引き上げる。
子供等がよってたかって向きをかへて漸く暫くの苦を免れる。
かくて悲しい一夜は明けた。余震前日に異ならざるも苦痛は日に烈しい。
幸にしてツナミの難はなかったが、食ふ物もなければ飲む物もない。
・・・・ 」(p853)
はい。被災しての病身のまま身動きができない苦しい状況で
『海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され』た状態にさらされていました。
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