鴨長明著「新版発心集」上巻(角川ソフィア文庫)。
はい。私のことですからもちろん現代語訳の箇所をひらきます。
その現代語訳を読みすすめていると、何だか現代のことを
読んでいるような不思議な気分になってくるのであります。
ここは、ひとつ引用。
「浄蔵貴所(じょうぞうきそ)が鉢を飛ばすこと」(p350~352)
「浄蔵貴所と申し上げるのは・・・並ぶ者のない行者である。
比叡山で飛鉢の法を修業して、鉢を飛ばしながら暮らしていた。
ある日、空(から)の鉢だけが戻って来て、中に何も入っていない。
不審に思っていると、これが三日間続いた。・・・
四日目に、鉢の行く方角の山の峰に出て様子を見ていると、
自分の鉢と思われるものが、京の方向から飛んで帰って来る。
すると北方からまた別の鉢が来合せて、その中身を移しとって、
元の方角に帰っていくのが見えた。 」
こうして犯人さがしにむかうのでした。
「・・老齢の痩せ衰えた僧がただ一人いて、肘掛けによりかかりながら
読経している。『見るからにただ者でない。きっとこの人のしわざだろう』
と思っていると、老僧は浄蔵を見て
『どこから、どのように来られた方か。
普通では人がお見えになることなどございませんが』と言う。
『そのことでございます。私は比叡山に住んでおります修行者です。
しかし生計を立てる方法がないので、この度、鉢を飛ばして、
人から喜捨を受けて修行を続けておりましたが、
昨日・今日と、大変不都合なことがございましたので、
一言申上げようと、参上致しました』と言う。
老僧は『私は何も知りません。でもとてもお気の毒なことです。
調べてみましょう』と言って、ひそかに人を呼ぶ。
すると庵の後ろから返事があり、出て来た人を見ると、
十四、五歳くらいの美しい童子で、きちんと唐綾の華やかな装束を着ている。
僧はこの童子に『こちらの方がおっしゃっていることはお前のしわざか。
全くあってはならないことだ。これから後は、そのようなまねはしては
いけないよ』と諫めると、童子は赤面し、何も言わずに下がっていった。
『こう申しておきましたので、今はもう同じようなことはしますまい』
と言う。
浄蔵は不思議に思いながら、帰ろうとする時、
老僧は『はるばる山を分け入って来て下さり、
きっとお疲れでしょう。ちょっとお待ち下さい。
接待申上げたい』と言って、また人を呼ぶ・・・・
浄蔵は『老僧の様子は、ただ者とは思えなかった。
法華経を読誦する仙人の類だったのだろうか』などと語ったという。
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