はや、六十歳を過ぎた私に、
『六十の手習い』という言葉が
あったのを思い出させられました。
白洲正子・河合隼雄著
「縁は異なもの」(光文社知恵の森文庫)
を古本で購入。
さっそく、ぱらりとひらくと、
六十という単語が目につく。
さっそく、引用。
対談「能の物語・弱法師 翁からの変奏曲」に、
それはありました。
白洲】 もうおしまいです。
六十歳ぐらいが分岐点ですね。
型ばっかりでもうろくする人と、
型を打ち破って、
急にすばらしいほうにいく人と。
河合】そういうものですか。
・・・・(p64)
この対談には、もう一箇所。
白洲】私の骨董の先生であった青山二郎さんから
『六十の手習いというが、それは六十になって、
何か新しいことを始めるということではない。
いままで一生続けてきたものを、
あらためて最初から出直すことだ』
といわれたのですが、
友枝さんの能との出会いはまさにそのようなものですね。
(p71)
う~ん。
「最初から出直すことだ」というのは、
「読んだ本を読み直すことだ」と、
私はかってに読みかえて理解します。
ということで、再読本から引用。
山野博史著「発掘 司馬遼太郎」(文藝春秋)
その足立巻一氏をとりあげた箇所の最後でした。
「司馬遼太郎は『虹滅の文学ーー足立巻一を悼む」
(産経新聞昭和60・8・19付大阪版朝刊)で気持を整理している。
『足立巻一(あだち・けんいち)は、つねに若かった。
・・・・・・
かれの大作は、すべて六十代からはじまり、
歳をかさねて作品に生命力があふれるようになった。
明治後、こういうひとは絶無だと思ううちに、
死んだ、七十二だった。その瞬間まで、
なまなかな青年よりもわかわかしかった。(後略)』
司馬遼太郎自身、十年余ののち、
足立ツァンと同じ享年でこの世からにわか隠れする
ことになるなんて、思いもよらなかったはずである。」
(~p197)
「『なまなかな青年より』六十の手習い」。
これを、今年の私の標語とします。
アレレ。いつの間にか、もう2月。
それでは2月からの今年の標語に。
『六十の手習い』という言葉が
あったのを思い出させられました。
白洲正子・河合隼雄著
「縁は異なもの」(光文社知恵の森文庫)
を古本で購入。
さっそく、ぱらりとひらくと、
六十という単語が目につく。
さっそく、引用。
対談「能の物語・弱法師 翁からの変奏曲」に、
それはありました。
白洲】 もうおしまいです。
六十歳ぐらいが分岐点ですね。
型ばっかりでもうろくする人と、
型を打ち破って、
急にすばらしいほうにいく人と。
河合】そういうものですか。
・・・・(p64)
この対談には、もう一箇所。
白洲】私の骨董の先生であった青山二郎さんから
『六十の手習いというが、それは六十になって、
何か新しいことを始めるということではない。
いままで一生続けてきたものを、
あらためて最初から出直すことだ』
といわれたのですが、
友枝さんの能との出会いはまさにそのようなものですね。
(p71)
う~ん。
「最初から出直すことだ」というのは、
「読んだ本を読み直すことだ」と、
私はかってに読みかえて理解します。
ということで、再読本から引用。
山野博史著「発掘 司馬遼太郎」(文藝春秋)
その足立巻一氏をとりあげた箇所の最後でした。
「司馬遼太郎は『虹滅の文学ーー足立巻一を悼む」
(産経新聞昭和60・8・19付大阪版朝刊)で気持を整理している。
『足立巻一(あだち・けんいち)は、つねに若かった。
・・・・・・
かれの大作は、すべて六十代からはじまり、
歳をかさねて作品に生命力があふれるようになった。
明治後、こういうひとは絶無だと思ううちに、
死んだ、七十二だった。その瞬間まで、
なまなかな青年よりもわかわかしかった。(後略)』
司馬遼太郎自身、十年余ののち、
足立ツァンと同じ享年でこの世からにわか隠れする
ことになるなんて、思いもよらなかったはずである。」
(~p197)
「『なまなかな青年より』六十の手習い」。
これを、今年の私の標語とします。
アレレ。いつの間にか、もう2月。
それでは2月からの今年の標語に。
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