山野博史著「人恋しくて本好きに」(五月書房)に
「なつかしき日本の私 ことばを育んだ人びとを想う」
という7頁ほどの文があり、それが私に印象深く。
最初に紹介されていた本を古本で注文することに。
『宮中歌会始』(平成7年・毎日新聞社)。
この本について山野博史氏は
「地味ながら、ちょっとした掘出し物。
この歌会始なんでも盡しを一読すれば、
知らんふりをきめこんできた
歌会始ちんぷんかんぷん派も、
歌会始もの知り博士になれることうけあいである。」
「歌会始の歴史と実際とをおさらいし、
昭和22年度から平成7年度までの
『歌会始御製御歌及び詠進歌』の
おごそかな調べに耳をすましていると、
戦後日本精神史の特異な断章が、
音吐朗朗なれど物静かにこだまする
のが聞こえてきそうである。」
(p51)
この本が届いたので、
このブログで紹介することに(笑)。
その前に、今年の歌会始はと、
新聞の切り抜きを確認。
お題は『語』でした。
語りつつあしたの苑(その)を
歩み行けば林の中にきんらんの咲く
天皇陛下
語るなく重きを負(お)ひし
君が肩に早春の日差し静かにそそぐ
皇后陛下
さてっと、届いた
菊葉文化協会編『宮中歌会始』(毎日新聞社)は
1995年印刷とあります。帯には「戦後五十年記念出版」。
その最後の平成7年度から引用(p332)
御題は『歌』
御製
人々の過しし様を思ひつつ
歌の調べの流るるを聞く
皇后宮御歌
移り住む国の民とし老いたまふ
君らが歌ふさくらさくらと
この本に、『歌会始とその歌風』と題して
岡野弘彦氏が書いておりますので、
そこから適宜引用してみます。
「
広き野をながれゆけども最上川
海に入るまでにごらざりけり
一首目は、昭和天皇が皇太子としての最後の年、
大正十五年の歌会始めの時の歌である。
内容といったものはほとんど無い。
悠々として大きな歌のしらべだけがあって、
声に出して誦しているとそのしらべに乗って、
うねりのような大河の姿が髣髴として
心の中にうかびあがってくる。・・・
しらべによる歌柄(うたがら)の大きさの点で
いうと昭和天皇の歌が出色である。
山形県では戦前からこの歌を作曲して、
県民歌として唱ったという。
しかし戦後は絶えて歌わなくなった。
唱うことによって短歌の内容を感じ取る
よい習得の場が、若者の教育の中から
一つ失われたことになる。
言葉の眼前の意味だけが文章の内容だと考えて、
しらべを失なった意味過剰のぎこちない歌を
作るようになった現代短歌の欠点を、
合せて考えるべき問題である。
山やまの色はあらたに見ゆれども
我がまつりごといかにかあるらむ
二首目の歌は天皇として『まつりごと』を
取られるようになった最初の歌会始の歌である。
明治天皇の
『暁のねざめしづかに思ふかな
わがまつりごといかがあらむと』
が本歌となっているが、
昭和天皇には御世の始めの清新さがあり、
しかも日本でたった一人だけが言える、
あるいは背負っていなければならぬ、
重い内省の歌だと思う。
当時も天皇のそばで歌の相談役をする人が居て、
表現のこまかな点や文法上のことに
ついては配慮を述べたであろう。
しかし
『我がまつりごといかにかあるらむ』という、
無心のもの言いのような率直でひたすらな感じは、
この世で一人のもの言いで、
余人には無いものである。」
(p70~71)
パラパラ読みの「ちんぷんかんぷん派」でも、
知の楽しみに満ちた深さを堪能できそうです。
「なつかしき日本の私 ことばを育んだ人びとを想う」
という7頁ほどの文があり、それが私に印象深く。
最初に紹介されていた本を古本で注文することに。
『宮中歌会始』(平成7年・毎日新聞社)。
この本について山野博史氏は
「地味ながら、ちょっとした掘出し物。
この歌会始なんでも盡しを一読すれば、
知らんふりをきめこんできた
歌会始ちんぷんかんぷん派も、
歌会始もの知り博士になれることうけあいである。」
「歌会始の歴史と実際とをおさらいし、
昭和22年度から平成7年度までの
『歌会始御製御歌及び詠進歌』の
おごそかな調べに耳をすましていると、
戦後日本精神史の特異な断章が、
音吐朗朗なれど物静かにこだまする
のが聞こえてきそうである。」
(p51)
この本が届いたので、
このブログで紹介することに(笑)。
その前に、今年の歌会始はと、
新聞の切り抜きを確認。
お題は『語』でした。
語りつつあしたの苑(その)を
歩み行けば林の中にきんらんの咲く
天皇陛下
語るなく重きを負(お)ひし
君が肩に早春の日差し静かにそそぐ
皇后陛下
さてっと、届いた
菊葉文化協会編『宮中歌会始』(毎日新聞社)は
1995年印刷とあります。帯には「戦後五十年記念出版」。
その最後の平成7年度から引用(p332)
御題は『歌』
御製
人々の過しし様を思ひつつ
歌の調べの流るるを聞く
皇后宮御歌
移り住む国の民とし老いたまふ
君らが歌ふさくらさくらと
この本に、『歌会始とその歌風』と題して
岡野弘彦氏が書いておりますので、
そこから適宜引用してみます。
「
広き野をながれゆけども最上川
海に入るまでにごらざりけり
一首目は、昭和天皇が皇太子としての最後の年、
大正十五年の歌会始めの時の歌である。
内容といったものはほとんど無い。
悠々として大きな歌のしらべだけがあって、
声に出して誦しているとそのしらべに乗って、
うねりのような大河の姿が髣髴として
心の中にうかびあがってくる。・・・
しらべによる歌柄(うたがら)の大きさの点で
いうと昭和天皇の歌が出色である。
山形県では戦前からこの歌を作曲して、
県民歌として唱ったという。
しかし戦後は絶えて歌わなくなった。
唱うことによって短歌の内容を感じ取る
よい習得の場が、若者の教育の中から
一つ失われたことになる。
言葉の眼前の意味だけが文章の内容だと考えて、
しらべを失なった意味過剰のぎこちない歌を
作るようになった現代短歌の欠点を、
合せて考えるべき問題である。
山やまの色はあらたに見ゆれども
我がまつりごといかにかあるらむ
二首目の歌は天皇として『まつりごと』を
取られるようになった最初の歌会始の歌である。
明治天皇の
『暁のねざめしづかに思ふかな
わがまつりごといかがあらむと』
が本歌となっているが、
昭和天皇には御世の始めの清新さがあり、
しかも日本でたった一人だけが言える、
あるいは背負っていなければならぬ、
重い内省の歌だと思う。
当時も天皇のそばで歌の相談役をする人が居て、
表現のこまかな点や文法上のことに
ついては配慮を述べたであろう。
しかし
『我がまつりごといかにかあるらむ』という、
無心のもの言いのような率直でひたすらな感じは、
この世で一人のもの言いで、
余人には無いものである。」
(p70~71)
パラパラ読みの「ちんぷんかんぷん派」でも、
知の楽しみに満ちた深さを堪能できそうです。
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