うん。どうやら、歌仙の扉をひらくのに、
徒然草がキーワードとなる気がしてくる。
というわけで、無理して読まずに徒然草の入門書から引用。
島内裕子著「徒然草をどう読むか」(左右社・2009年)の
はじまりの箇所から
「・・徒然草は、鎌倉時代の末期頃に成立した後、
しばらくは忘れ去られたかのように、広汎な読者を獲得した形跡がない。
けれども、時間が経過した室町時代になってから、
次第に歌人や連歌師たちが共感をもって迎えるようになった。
そして江戸時代になると、文学者や学者・芸術家たちのみならず、
幅広い読者層を獲得し、その潮流はそのまま現代ににまで続いている。」
( p4 )
写本に関する箇所も
「兼好自筆の徒然草は残念ながら発見されていないが、
兼好の時代から約百年後の室町時代の写本が残っている。
永享3年(1431)に歌人の正徹(しょうてつ・1381‐1459)に
よって書き写された・・写本が、現在最古の写本である。
・・・・『正徹本』のような古い写本の本文には、
句読点も清濁も付いていない。また、本文には改行は見られるものの、
明確な章段区分もない。
・・・慶長18年(1613)に・・烏丸光広(からすまるみつひろ)が
句読点や清濁を付けた徒然草の本文が、版本として刊行された。
この『烏丸本』徒然草が、それ以後は、定本として江戸時代を通じて
広く読まれることになった。近代に入って、明治時代から現在に至るまで、
最も流布しているのも、また『烏丸本』である。・・・・・
徒然草を細かな章段に区分する読み方は、
『源氏物語』研究史上の金字塔である『湖月抄(こげつしょう)』を
完成させた北村季吟(きたむらきぎん)が著した
『徒然草文段抄』(1667年刊行)によって、それまでに試みられていた
区切り方が整理され、現在に至っている。・・・ 」( ~p9 )
芭蕉が生きたのは、寛永21年(1644)から元禄7年(1694)。
ということは、章段にわかれた『徒然草』を、芭蕉は新刊として、
20代中頃以降に手にしていたのかもしれないなあと、思ってみる。
各章段にわかれた時から、各章段をわけて読む発想が生まれる。
そのように考えてみると、芭蕉の時代には各章段に切離された
徒然草的発想が生じ始めたという見方もできそうです。
そう思って島内裕子さんの言葉をおってみると
「ただし、兼好本人が章段番号を付けたわけではないのだから、
あまり章段区分に囚われない方がよいだろう。
むしろ、一つ一つの章段を切り離してそこだけを取り上げると、
徒然草の全体像を見失いかねない。
それが『テーマ読み』の弊害である。
徒然草を読むうえで重要なのは、
内部世界を貫く変化と持続の諸相を見抜くことであり、
章段相互の関連と展開に気づくことではないだろうか。 」( p10 )
うん。江戸時代を通じて広く読まれた徒然草の、
その章段分けが出来上がった『徒然草文段抄』と、
同時代に、芭蕉は歌仙のテーマを練り上げていく。
うん。そんな風に、徒然草と芭蕉とがダブリます。
さて、徒然草を読み、同時に歌仙を読むたのしみ。
ということで、広汎な楽しみの広がりに遊べます。
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