和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

谷内六郎の房総。

2024-04-11 | 安房
谷内六郎といえば、わたしには、
週刊新潮の創刊号からの表紙絵が思い浮かびます。

カタログ「誕生80年記念 絵の詩人 谷内六郎の世界」2001年を
ひらいていると、海の絵がさまざまに登場していることに
あらてめて気づかされます。

さてっと、ここには『表紙の言葉』を引用。
創刊号の絵には、絵の中に言葉があります。

『 上總の町は 貨車の列 火の見の髙さに 海がある 』

表紙絵ばかりが有名で、ご自身が書いていた
『表紙の言葉』を、ついぞ読んだことがありませんでした。
この創刊号の『表紙の言葉』の全文を引用してみます。

「 乳色の夜明け、どろどろどろりん海鳴りは低音、鶏はソプラノ、
  雨戸のふし穴がレンズになって丸八の土蔵がさかさにうつる幻燈。

  兄ちゃん浜いぐべ、早よう起きねえと、地曳におぐれるよ、
  上総(かずさ)の海に陽が昇ると、町には海藻の匂がひろがって、

  タバコ屋の婆さまが、不景気でおいねえこったなあと言いました。

                   房州御宿にて    」
                      ( p62 カタログより )

鯨の姿をグランドピアノにたとえた絵がありましたので、
その『表紙の言葉』も引用してみます。


「 学芸会で先生がひいてくれたピアノは、
  『 青い月夜の浜辺には 』浜千鳥の曲です、
  音が月の光といっしょに波の面からだんだん
  海底に向って幕のようにさがって行くと

  先生もピアノも生徒もさがって行って海底につきました、
  先生は鯨のおなかをピアノのかわりにしているのです。

  鯨は先生がおなかをアンマしてくれてるのだと思って
  静かに眼をほそめていると、どうもアンマにしては
  たたきかたが変だぞと思って、

  いきなり大声で杖をおもちですか!! とどなりました。

  駅員の人がパスおもちですかというのに似ていたので、
  先生はびっくりして、いきなり運動会のピリピリの笛を
  ピーッと鳴らしたので、

  鯨は安心してこうつぶやきました
  『 やっぱり専門のアンマさんだ 』      」

        ( p 64  「青い曲 1956年」 カタログより )


カタログをパラパラとめくっていると、牛も登場しておりました。
カタログにある、谷内六郎の年譜のはじまりにはこうありました。

「1921(大正10)年 0歳
    父久松と母しげとの間に、12月2日、
    渋谷・伊達町で生まれる。9人兄弟の六男。

    当時、父は東京高等獣医学校の寄宿舎を恵比寿で経営。
    理想主義的な思想の持ち主で、リベラルな性格。
    ・・・鈴木農牧場でかつては主任を務め・・・   」(p160)


絵と文谷内六郎の「わが幼年時代」から、牛が登場する場面を引用。

「 (五) 乳牛の白と黒のまだらを見て
     ぼくは世界地図に見たてておりました。

  (六) 母はよく乳をしぼっていました。
     そんな姿が乳色のユリカゴのように
     よみがえって来るのです。        」(p137)


さて、谷内六郎が週刊新潮の表紙絵を担当するに際しての
きっかけは、ここいらあたりかなという箇所がありました。

「編集者 齋藤十一」(齋藤美和=編 2006年・冬花社)の
最後の方に、「齋藤美和・談」という談話が活字になっておりました。
そこから引用。

「私は『週刊新潮』の創刊準備室で、表紙に関することを担当していました。
 どのような表紙にするか、試行錯誤がつづきました。

 編集長の佐藤亮一さんから
『 出版社から初めての週刊誌だから作家の顔で 』と言われて、
 作家の写真を表紙の大きさに焼いてみたりしたのですが、

 いくら立派な顔であっても、しょせんは
≪ おじさん、おばさんのアップ ≫で、あまり面白くない。

『 やっぱり絵にしよう 』と、そのころ若手から
 中堅の位置にあった高山辰雄さんや東山魁夷さんなどに
 描いていただこうと考えたのですが、これもなかなかうまくいかない。

 そんなとき齋藤(十一)が
『 こんな人がいるよ。研究してみる価値はあるんじゃないか 』
 と教えてくれたのが、おりしも第一回文藝春秋漫画賞を
 受賞したばかりの谷内六郎さんでした。

 『週刊新潮』の誌面には、一癖も二癖もある連載が並んでいました。
 ・・・・          」( p280~281)

この齋藤美和さんの談話に、家出の話がありました。
房総に関連なので最後にそこも引用しておくことに。

「結局、齋藤は早稲田第一高等学院から早稲田大学の理工学部へ進みました。
 理系に進んだのは、ガス会社に勤めていた父親が理系だったことも少し
 影響していたのかもしれません。
 
 大学で仲良くなった同級生に、白井重誠さんという方がいました。
 月刊少女雑誌『ひまわり』の編集部を経て、『芸術新潮』の嘱託になられた
 方ですが、その白井さんが、授業中に隣の席で文庫本を読みふけっていて、
 余りに夢中になっている姿を見て、齋藤が声をかけたのだそうです。

 ・・・・・・
 そのうちに、大学生活よりも本を読む方が楽しくなってきた齋藤は、
 どこか空気のいいところで本をじっくりと読みたくなったそうです。
 ・・・・・・
 お父さんの月給袋をちょっと拝借して、家出をしてしまいました。

 目的地は千葉。齋藤は子供のころ、夏になると一家で
 内房の保田にある農家の離れで過ごしていましたから、
 土地勘があったのです。

 中学生のころには保田から外房の鴨川まで
 下駄で歩き通したこともあって、その途中の
 吉尾村(現・鴨川市吉尾平塚)という集落が
 心に残っており、あそこに行きたいと考えたそうです。

 結局、齋藤はこの吉尾村のお寺の客間を紹介されて
 ほぼ一年の間、昼間は近所のお百姓の畑仕事の手伝い、
 夜は好きなだけ本を読んで過ごしました。・・・・    」
                        ( p272~273 )

 
 


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