「増谷文雄著作集⑨」に
中国民族と禅宗の関連を指摘した箇所があり、印象深い。
「・・・インド=アーリアンの思想的特色は、
分析的であり、論理的であることにある。したがって、
本来の仏教は、そのような傾向がつよい。
人間を分析して考える。認識の過程を分析して考える。
あるいは、修行の道程を幾段階にもわかって考える。
その仏教をそのままに受けとってみると、それは、わたしどもにも、
名目法数(みょうもくほっすう)のくさむらであるかに思われる。
しかるに、中国民族の思想的特色は、具体的であり、直観的であり、
また現実的である点に存する。その思想的特色をもって、かれらは、
しだいに、仏教を自己にふさわしいものに変容せしめた。
その傾向を端的にしめしているのは、ほかならぬ禅なのである。」
(p291)
「名目法数のくさむらであるかに思える」とあったのでした。
そうそう、「くさむら」といえば、
道元の現成公案(げんじょうこうあん)のはじまりの方に
忘れられない言葉がありました。
「華は愛惜(あいじゃく)にちり、
草は棄嫌(きけん)におふるのみなり。」
この原文の、増谷文雄訳は
「花は惜しんでも散りゆき、
草は嫌でも繁りはびこるものと知る。」
増谷文雄氏は、「現成公案」の巻を説明するにあたり、
こう指摘されておりました。
「この一巻は、別に衆に示されたものではなく、ただ書いて、
これを『鎮西の俗弟子柳光秀』なるものに与えたものと知られる。
・・・・おそらくは、『正法眼蔵』の数多い巻々のなかにあっても、
まさに白眉となし、圧巻のものといって、けっして過言のとがめを
受ける懼(おそ)れはあるまい。」
(p38「正法眼蔵(一)」講談社学術文庫)
ちなみに、増谷文雄氏は「正法眼蔵(二)」で、
こんな指摘をしております。
「道元がこの『正法眼蔵』の巻々において、
しばしば試みている手法をあかしておきたいと思う。
道元は、まず、その冒頭の一節において、ずばりと、
そのいわんとするところを凝縮して語りいでる。・・・
幾度もいうように、この『正法眼蔵』の巻々は、総じて、
まことに難解である。まさに難解第一の書である。だが、その
難解にめげずして、さらに幾度となく読みきたり読みさるうちに、
ふと気がついてみると、その難解さは、しばしば、その冒頭の
一段において極まるのである。何故であろうかと思いめぐらして
みると、結局するところ、そこに、いまもいうように、もっとも
凝縮された要旨がずばりと語りいだされているからである。」
(p198~199・講談社学術文庫)
はい。ここでは現代語訳は避けて
現成公案の冒頭の一段を原文で引用しておきます。
「諸法の仏法なる時節、すなわち
迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、
まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといへども、
華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」
増谷文雄氏は、その凡例で指摘されておりました。
「かならず原文を読んでいただきたい。
朗々と吟誦すべき生命のことばは、あくまでも
原文のものであることを、わたしは声を大にして
言わねばならない。」
はい。これであなたも、
道元の『正法眼蔵』の原文に、
わずかでも触れたことになり、
わたしは、ここからスタート。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます