福永光司・河合隼雄対談
『飲食男女 老荘思想入門』(朝日出版社・2002年)。
以前古本で読んでたはずなのに、
その時は印象鮮やかだったのに、
忘れてた一冊。はじまりの再読。
では、引用してゆきます。
河合】 僕は1962~65年の間、スイスのユング研究所にいたんです。
そこの研究所で『老子』を読んでいる人はすごく多かったですね。
ほとんどの人が、何らかの翻訳で読んでいました。
『老子』の翻訳は種類がものすごく多いのですね。
皆いろいろな訳をするから、世界で一番多いと
言われているようです。 (p42)
河合】 スイスにいたときに、英語の訳と、ドイツ語の訳と、
日本語の注釈書を並べて『老子』を読んだんです。
解釈がものすごく違うので、おもしろかったです。(p107)
うん。どうやら老子へのガイド役は、あまたいるようです。
それでは、河合さんは、どうして道案内をお願いしたのか。
ここは、「はじめに」から引用することに。
「・・・現代人の心の病を治療しているとき、私を支えて
くれている強力な思想は老荘ではないかとも思っている。
・・・とは言うものの、私は老荘思想の専門家ではないので、
自分の知っていること、考えていることがどこまで確かであるか
不明である。
そこで・・福永光司先生に『個人授業』をお願いできないか、
と考えた。それに、福永先生は公職を退いた後、九州・中津
の方に引退されて、一般の者はその謦咳(けいがい)に接する
機会がほとんどない。・・・・・・
講義がはじまると、福永先生の面目躍如。
文字通り説き来り説き去って、止まるところを知らず、という有様。
・・・まことに残念なことに、福永光司先生は、
この書物の出版を待たずに、お亡くなりになった。
予期せぬことで驚き、悲しみも深かった。
それだけに、このような形であれ、
先生の思想の片鱗(へんりん)を留めることに、
少しでもお役に立てたことを有難いと思った。・・・
2002年6月吉日 」
第一章「道とは何か」に
福永】 ・・・だけど色と色が混じる間色は、道教の一番大事なことですね。
コンビネーションというか。これは柔道がそうですが、
五十ほどの技の連携技を知らなくて、ただ背負いだけとか、
立ち技だけとかでは通用しないわけです。
大試合になればなるほど通用しませんから。組み合わせること、
つまり複合混成が命を持ったものの本来の姿です。 (p37)
はい。留まるところを知らない講義を、その断片だけでも拾ってゆきます。
〇 それから因果応報も、道教は非常にはっきり否定します。これは
禅宗の道元の『正法眼蔵』がそうですね。因果関係は否定しています。
( p51 )
〇 また親鸞の場合、人間性における自然を問題とします。・・
親鸞はより老子にどっぷり浸かっているんです。
だから浄土真宗の最高経典の『仏教無量寿経』も
道教の経典を下敷きにしているんです。そして
三世紀の、西暦252年、洛陽の白馬寺で訳されたんです。
当時の三世紀半ばの洛陽は、もう老荘の清談の一番の本拠地ですから、
タオイズムを基礎にして翻訳しています。・・・
『仏教無量寿経』はそう長くない経典ですが、その中には
自然という言葉が五十六回も使われています。・・
ですから親鸞の場合は人間性における自然、
人間の本質としての自然をいいます。
そこから結局中国語でいえば飲食男女、仏教が入って
きてからの中国語でいえば肉食妻帯の問題になるわけです。
・・・・
河合】 肉食妻帯を説くのは、仏教では考えにくいことですね。
( ~p55 )
うん。第二章から
「・・孔子は『神を祭れば、神在(いま)すが如くす』とあり、
死後も実在するとは言っていないんです。おいでになるという
ことにしてお祭りをしようと言うのです。・・・・ 」(p101)
第4章「日本に受け継がれた老荘思想』では、
芭蕉と漱石も登場しておりました。
「日本では道教を表には出しませんけれども、
文芸と老荘思想を結びつけたのは芭蕉です。
芭蕉の全集引っ繰り返してみますと、
特に若い時代の芭蕉は荘子です。
芭蕉は禅の勉強をしています。
京都五山の臨済禅と老荘の文芸とを
接近した形で自身も乞食行脚(こつじきあんぎゃ)をして、
紀行文を書くんです。・・・
芭蕉の俳句を全部集めたものを見ていきますと、
やはり荘子関係が圧倒的に多いです。
漱石の場合も老子より荘子の方が多くあります。 」(~p150)
うん。夏は汗して、福永光司の本をめくり、本めぐり。
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