和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

英断家と熱血家

2024-05-29 | 安房
「安房震災誌」をひらいていても、
安房郡長大橋高四郎の正確な年齢はわからないなあ?

そういえば、年齢がわかる人がおりました。
光田鹿太郎(みつだ・しかたろう)1880年(明治13年)生まれ。
ということは、関東大震災の光田氏の年齢は43歳くらい。

「安房震災誌」の中に、『英断家と熱血家』とあります。
英断家の大橋高四郎と、熱血家の光田鹿太郎ということらしい。

光田氏の名前をネット検索してみると、
「岡山生まれ。「福祉の父」と呼ばれる石井十次(1862〜1914)が始めた岡山孤児院で事務を執り、鎌倉・東京を経て、1916(大正5)年、北条町新塩場に千葉県育児園(県内初の孤児院)を開園。関東大震災で園は倒壊するが、孤児は助かる。神のご加護と感謝し、関西方面の知人を頼って救援物資依頼の演説会を各地で開催、布団など1千点余の支援を仰ぎ、熱意と犠牲的精神をもって被災者の寒さと飢えを救った。・・・」(「館山まるごと博物館」より)

「安房震災誌」に登場する安房郡長と光田氏との箇所をここに引用しておきます。

「・・・郡当局は、屋根材料の供給に腐心してゐるところへ、
 偶々千葉県育児園主光田鹿太郎氏が訪て来た。

 氏は宗教家で安房に育児事業に従事してゐるものである。
 此の度の 大地震には、心身を捧げて罹災民の為めに盡してゐるものである。

 屋根材料の欠乏には、初めから確信があったらしく、
『 自分は大阪に大鐵工場を経営してゐる小泉澄と云う知己がある。
  此際のことだ、之れに懇請すれば、トタンとそうした材料は、
  多少手に入れることが出来る確信がある 』といはれた。・・・・

  そこで、郡長は
『 此の急迫な事情で県の指揮を仰ぐ余裕がない、
  全責任は自分一人で負ふ覚悟である。
  トタンと屋根材料一切の為めに、
  即刻大阪へ急行して貰ひたい 』と、・・光田氏に答へた。

 素より英断家と熱血家の、民を救ふか救わぬかの分かれ目の場合だ、
 話は忽ち一決して、愈よ光田氏は大阪へ急行と極まった。

 すると氏は一刻の猶予もなくその場から直ちに飛び出して、
 館山に行って、碇泊してゐた軍艦に事の次第を訴へて、
 大阪急行のことを頼んだ。光田氏の熱心は艦長の同情を喚起して、
 遂に即刻乗艦の許可を得た。
 
 —— 当時鉄道も汽船も、震災の為めに杜絶して、軍艦による外なかった。——
 そして、直ちに館山湾を出発した。それは9月11日であった。

 ・・・大阪に着くと、直ちに小泉氏を訪ひ、
 次で大阪府庁を訪ふて屋根材料のことを懇請すると同時に、
 偶々府当局及び府市の有志者から成る関東大震災救護に関する
 委員会の会合があったので、それへ出席して、
 安房大震災に関する一場の講演を為し、
 且つ携ふるところの安房震災写真帖を示して、
 大阪人の前に安房大震災の惨状を開示した。

 ・・・府庁では・・忽ちに『トタン』10萬枚と、釘300樽、鎹1萬本、針金2千貫。
 外にローソク、マッチ、衛生材料を取りまとめ、その上之れが輸送に要する
 汽船の提供までも尽力・・一刻も早く罹災者の急を救ふべく厚意を寄せられた。

 ・・・館山湾へ入港した・・時は実に9月28日であった。  」(p266∼268)


ここは、長くなるので、次回もつづけることにします。

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