和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

そうしておこう。

2022-07-02 | 古典
杉本秀太郎の「神遊び 祇園祭について」(昭和48年)の
祇園囃子のあとには、いよいよカミ談義となっております。

「 八坂神社の主神はスサノオノミコトである。
  そうしておこう・・・   
  山と鉾には、それぞれに御神体というものがある。」

はい。このような箇所から引用してみます。

「 もしも仮にスサノオノ鉾というのがあれば、
  その鉾は、他の鉾からも山からもきびしく区分され、
  ここに身分差というべきものが生じ、

  風流における競合ではぜったいに避けねばならない
  あの特例が、介入するにいたるだろう。
  特例は風流のおもしろさを、一挙に味気なさにと、
  おとしめるにいたるだろう。・・・    」


はい。私には手におえないので、カットしながら続けます。

「祇園祭の神遊びは、こうして祇園囃子の耳遊びから、
 さらにこんどは目の遊びのほうに、領界を移して成立する。

 カミは風流のたねになるものを手あたりしだいに
 拾い取って、それで身をやつすのだ。

 日本の神話、古今和歌集、源平の戦記、謡曲集、
 和朝二十四孝童蒙訓、さらには町誌からさえ、
 風流のたねは自由勝手に取りあげられ、
 手はさらに中国にも伸びて堯代の泰平逸事、
 函谷関の故事、魏晉南北朝の佳話、支那二十四孝が、
 カミのかくれ簑となる。

 祇園祭の解説パンフレットでも開いて鉾と山の名を一覧しさえすれば、
 風流とは、物知りの遊びであったことが、だれの目にも映るにちがいない」

はい。杉本秀太郎氏は、八坂神社の主神を仮に、
『そうしておこう』としてはじめておりました。

うん。ここから徒然草に現れる信仰心を思い浮かべます。
島内裕子著「徒然草文化圏の生成と展開」(笠間書院)に徒然草の
第67段・第68段・第69段という連続する三章段への指摘があります。

「これらの連続する三段はすべて信仰心という点で繋がっている。・・
 これら三章段が連続して書かれていることの意味を問い直す必要が
 ないだろうか。もう一度振り返ってみれば、

 最初が和歌の神への信仰心であり、
 次が土大根への信仰心、
 最後が書写山円教寺を開山した高僧性空上人のこと、
 というようにこの連続する三章段には、
 神道、民間信仰、仏教への信仰心が書かれていることになる。

 つまり、ここでどれか特定の宗教に対する信仰心を書くのではなく、
 神道・民間信仰・仏教というようにそれぞれの分野の信仰心と、
 それから招来された利福を描いている点こそが重要だろう。

 兼好の執筆方法として連想による展開ということが言われるが、
 もし兼好にとって信仰というものに優劣があったならば、
 このような書き方にはならず、
 仏教なり神道なりの分野での例示が連続するのではないだろうか。」

うん。もうちょっと引用をさせてください。

「 徒然草には僧侶や法師たちが多数登場するが、
  彼らは有名無名を問わず、滑稽な失敗をしたり、
  かたくなな人物として批判的に描かれたりすることも多い。

  もちろん称賛の対象として取り上げられている法師たちもいるが、
  彼らとて型に嵌った偉人としてではなく、意外な側面や、
  世間の常識を超越した個性的な人物として描かれている。

  つまり徒然草においては、彼が体現している
  教義のすばらしさを述べるところに主眼はなく、
  人間的な息吹や柔軟な精神に着目して登場していると考えられる。」
                ( ~p49 )

2022年の祇園祭は3年ぶり本来の形で開催されるそうです。
だからって、怠け者の私は見にもゆかず7月は徒然草読み。





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