扇谷正造が、『週刊朝日』の編集長を引き受けたとき
「部数はわずか10万部で、返品率25パーセントという惨状だった。
これを朝日の幹部は『なんとか35万部まで引き上げてくれ』と
扇谷に頼んだ。そこまでいけば黒字になる。
ところが扇谷は8年のうちになんと、138万部という、
週刊誌で日本初の大記録を打ちたてたのである。・・・ 」
( p66 櫻井秀勲著「戦後名編集者列伝」編書房・2008年 )
このあとに、いろいろ書かれていたのですが。
はい。私はすぐに忘れそうです。それでも
引っかかったのは、この箇所でした。
「私は22歳の頃のある風景をいまでも思い出す。
昭和28年、大学を出て大衆小説誌『面白倶楽部』の
新米編集者になった年、藤原審爾・・のところに通っていた。
ある日曜日、彼の家に行く途中で、
ふと華やいだ声が庭先から聞こえてくる家があった。
男の優しい声もする。私は反射的に庭を覗いたが、
そこには夫人と娘らしい若い女性と、小柄な男が
楽しげに談笑していた。表札を見ると扇谷とあった。
・・・後年、彼の知遇を得て編集論を聞いたとき、
突然この風景が思い浮かんだ。やはり女性心理を
マスターするには、むずかしい顔で家族と接して
いるような日常では、不可能なのだ。
私は一人の名編集長が育つプライベートな土壌を知ったことで、
ひどく得意だったし、また自信にもつながったように思う。・・」(p74)
このあとに、
「大宅壮一は扇谷正造を評して
『 文春の池島、暮しの手帖の花森と並ぶ戦後マスコミの三羽烏 』
とほめている・・・ 」
こうあるのですが、池島といえば、
司馬遼太郎著『以下、無用のことながら』(文芸春秋のち、文庫)に
「信平さん記」という文があるのでした。
「池島信平さんは、その風貌のように、
ゴムマリのように弾んだ心を持っていた。 」とはじまっており、
その文の最後に、夫人が登場しておりました。
「社葬がおわるころ、夫人のあいさつがスピーカーからきこえてきた。
横にいた安岡章太郎が、私(司馬)の腕をつかんだ。
『 池島信平の文体とそっくりだ 』
気味わるいほど話し方の呼吸や精神のリズムが似ていた。
信平さんは、残すに足るもっとも大切なものを夫人にのこした。
もともと個人の好みとしては他人に影響力をもちたいなどと
いうような田舎くさいことを考えたことのないひとだったが、
しかし死後、当人の見当を超えてさまざまな人に
その影響力をのこしてしまった。このことは、
このひとの後輩の同人たちが全員気づいていることらしく、
またたれもがそれを誇りにもしているらしい。 」( 単行本・p410 )
う~ん。あとひとり、花森安治の家族が思い浮かばない。
どなたかご存じの方はおられますか?
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