篠田一士著「幸田露伴のために」(岩波書店・1984年)。
はい。露伴を読まないくせに、気になる個所をチェック。
「露伴を知らなければ、日本文学そのものとはいわない、
少なくとも日本の近代文学がもつ底力は、ついに理解されないと、
ぼくは、だれはばからず断言する。 」( p137 )
ここで、「日本文学そのものとはいわない」と断っている。
こういうのが、私にはこたえられない箇所です。なぜって、
私は文学を読まないから、そんな変人をも取り込む言葉に、
まいってしまいます。それじゃ、どういう『底力』なのか。
わたしにも読めそうな紹介がしてありました。ありがたい。
「・・60過ぎた露伴が書いた、ささやかな昔話『野道』一篇を
読んだだけでも、そこには、粋なデリカシーが躍動し、
ときとして、西脇順三郎の詩に通じるようなモダニスチィックな
感性のよろこびさえ汲みとることができるのである。 」( p127 )
なんか、読んでみなきゃ、意味が理解できなさそうな箇所。
ここで、『ささやかな昔話』を読んでみなきゃとなります。
ありました。「露伴全集」第四巻
昭和28年3月10日第一刷発行
昭和53年6月16日第二刷発行
そんなに、戦後に読まれていなかったようだとわかります。
それはそうと、『野道』は8ページの短文(昭和3年)です。
この短さならば、例え旧かなでもどなたでも読めそうです。
春になり、郵便で音信がとどくところから始まります。
その四行目から1ぺージ目をつい引用したくなります。
「 無事平和の春の日に友人の音信(おとづれ)を受取る
といふことは、感じのよい事の一(ひと)つである。
たとへば、其の書簡(てがみ)の封を開くと、
其中からは意外な悲しいことや煩(わずら)はしいことが現はれようとも、
それは第二段の事で、差当つて長閑(のどか)な日に友人の手紙、
それが心境に投げられた惠光(けいくわう)で無いことは無い。
見ると其の三四の郵便物の中の一番上になつてゐる一封の文字は、
先輩の某氏の筆(ふで)であることは明らかであつた。
そして名宛の左側の、親展(しんてん)とか侍曹(じさう)とか
至急(しきふ)とか書くべきところに、閑事(かんじ)といふ二字
が記されてあつた。閑事と表記してあるのは、
急を要する用事でも何でも無いから、忙しくなかつたら披(ひら)いて読め、
他に心の惹かれる事でもあつたら後廻しにして宜(よ)い、という注意である。
ところが其の閑事としてあつたのが嬉しくて、
他の郵書よりは先づ第一にそれを手にして開読した。
さも大至急とでも注記してあつたものを受取つたように。 」(p437)
はい。これが最初の1ページ目にあるのでした。
それから・・・・・。
つい、したり顔して最後まで説明したくなる。
でも、ここまでにしておくことにいたします。
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