和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

聞く力。

2012-04-15 | 短文紹介
日下公人著「思考力の磨き方」(PHP研究所)
曽野綾子著「人間の基本」(新潮新書)
をつづけて読みました。
うん。お話を傾聴するように読みました。

日下さんの本にこうあります。

「・・日本のマンガの程度は想像を絶するほど高い。
その一方で、昔と比べて低くなったのが日本人の
ヒアリング・リテラシー(聞く力)である。」(p55)

ところで、
3・11の後に、皆さんは、誰かの言葉を聞きたいと、
思ったのじゃないでしょうか?
政治家の言葉に満足できない方々は、
どなたの言葉を聞けばよいのか?
とまどっておられる。
ちなみに、
曽野綾子さんのこの新書の最後のページに
こうありました。

「これからは政治家も『安心して暮らせる』を
『いざとなったら』に置き換えて、
人々に訴えるべきだと思います。・・・・
常時ばかりではなく、非常時にも対応できる人間
であるために、その基本となるのは
一人ひとりの人生体験しかありません。
強烈で濃厚で濃密な体験、
それを支える道徳という名の人間性の基本、
やはりそれらがその人間を作り上げるのです。」(p191)

うん。この新書の最終ページだけ引用しても
何にもならないでしょうが(笑)、
3・11の後「聞く力」を試すのに、
よい一冊ではないかと、
思いながら読ませていただきました。

それにしても、
曽野綾子さんのこの本を読んでも、
たとえば、方丈記とかの日本の古典が登場せずに、
西洋的な知性へと、さそわれるのが、
ちょっと、私に不満が残ります(笑)。

たとえば、
「かつての漢文素読や詩の暗誦は、繰り返し強制的に覚えさせられたからこそ、ある瞬間にぱっと口を突いて出てきます。」(p132)とあるのですが、この新書には、漢文や日本の古典がぱっと出てきてはいない。うん。ないものねだりしてはいけませんね(笑)。

うん。それでも、たとえば、ユーモアというテーマなら、
世界共通の広がりを感じさせてもらえます。
次のページには、こうありました。

「国会での質問や答弁にせよ、会社の中の意見の対立にせよ、分野や年代性別を問わず社会全体から個性とユーモアが消えて、つまらない理屈ばかりになって来ましたね。・・そもそもあいての何かを批判する時は、翻って自分の中にも同じものが含まれていることを理解する必要があるのです。それが自分を笑いものにできるユーモアに通じるんですから。ユーモアとは人間の真実をとらえた瞬間の笑いであって、人間はあまりに本当のことを言われると、つい笑ってしまうものです。その伝統は川柳などにかろうじて生きていますが、最近はお笑い芸人の馬鹿話と勘違いされてしまっています。真実を見る、というのはまず自分をきっちり見ることです。自分を見つめていればこそユーモアが生れるのに、そうならないのは幼稚な証拠、つまり真実を見抜く力もないし、人間というものに対するごく一般的な恐れや同感のない証拠です。」

ここに、「お笑い芸人」とある。
そういえば、日下公人「思考力の磨き方」に、

「いまや『東大ブランド』が通用するのはタレントの世界ぐらいである。テレビでは『東大出身タレント』『京大出身タレント』が、ただそれだけでもてはやされているが、『あいつは東大出だから』といった発想で仕事を任せているような企業はほとんどないだろう。もしあれば、その企業の将来は期待できない。」(p71)

う~ん。
これは、ユーモアというのでしょうか。
真実を見抜く力というのでしょうか。
どっちも同じか(笑)。

2冊ともに、共通して、テレビへの言及に
切れ味があり、テレビをダラダラ見ている私は、
耳が痛いのでした。
というか、傾聴する、
言葉のひっかかりとなっております。
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守備範囲の広さ。

2012-04-14 | 短文紹介
「憂鬱でなければ、仕事じゃない」(講談社)で、
見城徹は、
「圧倒的努力とは、とても単純である。・・・どこから手を付けていいかわからない膨大なものに、手を付け、最後までやり通すことだ。」(p60)

ところで、編集者・見城氏が作家、ミュージシャン、スポーツ選手、女優・・へ手紙を書いた、その文面は、気になります。まあ、それはそれ(笑)。それよりも、見城徹氏が1950年生れで、〈狐〉こと山村修氏も1950年生まれということが、気になりました。ここでは、ちくま文庫「〈狐〉が選んだ入門書」の解説・加藤弘一氏の文を引用しておきます。

「・・〈狐〉が主な発表の舞台としたのは『日刊ゲンダイ』の『新刊読みどころ』というコラムだった。『日刊ゲンダイ』は中年サラリーマン向けの夕刊タブロイド紙である。スポーツ記事や風俗記事、芸能記事のひしめく紙面に22年半、週一回のペースで書きつづけ、とりあげた本は1200冊に達するが、特筆すべきは守備範囲の広さで、小説、随筆、思想書から古典、漫画、画集におよんだ。昨今新刊書の寿命は短いが、書評はさらにはかなく、基本的に読み捨てされるものである。ところが〈狐〉のコラムは読者の支持を受け、はなはだ異例のことながら・・次々に単行本にまとめられた。・・〈狐〉の書評はなぜこれほど読者を魅了するのだろうか?・・・」

こうして、その魅力をさぐる解説が続くのでした。
気になるのは、山村修氏が亡くなる一年前に
なぜ、入門書を取り上げることにしたのか?
ということで、
「〈狐〉が選んだ入門書」が文庫になったのを機会に、あらためて、以前途中で放り出していた、ここに取り上げられた入門書の遅読にチャレンジしてみます。そのよい機会を与えていただけたのだ。と思って。
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入門書。

2012-04-13 | 短文紹介
注文してあった
山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくま文庫)がとどく。
文庫解説は加藤弘一(私にははじめてのお名前です)。
あらためて、本の「はじめに」をひらくと、

「入門書こそ究極の読みものである――。あるときふと、そう思いはじめました。このごろはそれが確信にまで高まり、・・・」と山村修氏ははじめておりました。

うん。この本が新書で出た時に、紹介されている本を、読もうと思いました。それが、途中からどうしてか、山村修著「遅読のすすめ」を身近においています(笑)。そういえば、山村修の文庫解説はどなたが書かれていたか?

山村修著「増補 遅読のすすめ」(ちくま文庫)
この解説は佐久間文子。
この文庫には第二部に「本が好きになる本の話」があり、ありがたい。

「水曜日は狐の書評」(ちくま文庫)
この解説は、植田康夫

山村修著「もっと、狐の書評」(ちくま文庫)
この解説は、岡崎武志

山村修著「禁煙の愉しみ」(朝日文庫)
この最後の「特別寄稿」は、山村睦美

山村修著「気晴らしの発見」(新潮文庫)
この解説は、中野翠



もどって、
加藤弘一さんの解説のはじまりを引用。

「山村修は大学図書館に司書として勤務するかたわら、『匿名書評家〈狐〉』として1981年以来書評を書きつづけた。2006年、健康上の理由から大学を早期退職し、文筆に専念する生活にはいった。2006年7月、本書『〈狐〉が選んだ入門書』を実名で刊行して〈狐〉が自分であることを明かすが、翌月帰らぬ人となった。56歳だった。・・・」

ちなみに、
幻冬社の見城徹氏は1950年生まれ。
そして、山村修氏も1950年生まれ。
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がんばろう。平均年齢50歳以上の方々。

2012-04-12 | 地域
文藝春秋2011年5月号。
そこに、葉山太郎の「あの日、大川小で何が起こったか」という10ページが掲載されているので、読んでみました。
宮城県石巻市の釜谷地区にある大川小学校。
はじめのほうに、地区の状況を示しております。

「市役所の河北総合支所の調べでは、釜谷に住んでいた393人のうち、172人が津波で亡くなり、15人が行方不明になった(3月15日時点)。ほぼ半数が犠牲になったことになる。ただし、2011年3月11日は金曜日で、地震が起きた午後2時46分には、若手の多くが市の中心部などへ働きに出かけていた。住民の話を総合すると、『その時』に釜谷にいて助かった人は約40人しかいない。そして『犠牲者のほとんどは勤務先ではなく自宅で被災した』(河北総合支所、西城重光・地域振興課長補佐)ことを考え合わせると、発災時に釜谷にいた人の生存率は2割に満たない計算だ。初めて明らかになる数字である。」(p335)

こうして、大川小学校の全児童108名中74名が死亡・行方不明となった、今回の津波被害を現在時点での調査結果を踏まえながら開示していっており、納得しながら読みすすみました。


VOICE5月号には、
最近の著書を持つ方々を、パラパラと見ておりました。
たとえば外岡秀俊さんへのインタビューでは、外岡氏の新刊「3・11複合被災」(岩波新書)へのよき導入部として、新書を読んで見ようというキッカケとなります。その箇所はというと、インタビューの最初の方にこうあります。

「関東大震災について一般向けに平易に書かれた本を探したんですが、吉村昭さんの『関東大震災』が文庫になっていたぐらいで、あとは専門書や調査報告書ばかり。70年も経つというのに、なぜこんなに本がないのかと驚きました。過去を参考にしようにも、比較しようがなかったんです。・・・・人間の記憶はほんとうに頼りないもので、残したいと思っても、なかなか残らない。東日本大震災の経緯をコンパクトにまとめておきたいと思ったのは、全体像を手軽にたどれる見取り図を、早いうちにつくっておく必要があったからです。」(p91)

うん。「3・11複合被災」を、手にとってみたいと思えるインタビューでした。
まあ、こんな調子で、上杉隆・茂木健一郎の対談も読み、
あらためて上杉隆著「新聞・テレビはなぜ平気で『ウソ』をつくのか」(php新書)も手にとってみようとするわけです。

あとVOICEでは、大前研一氏の文を読みました。
最後の方にこうあります。

「かつて私は『この国は2005年以降、改革ができなくなる』と指摘した。その時点で日本人の平均年齢が50歳に達するからだ。私がみてきた企業社会では、平均年齢が50歳を過ぎてしまうとなかなか大きな変化を起こせなくなる。いま日本の地方に行くと高齢者ばかりで、自分自身が蘇ろうとする気力すらない町や村がたくさんある。実際のところ、そのような改革の動きもないまま2005年は過ぎ去り、私が想定していたよりはるかに悪いかたちでこの国全体が活力を失ってきた。」(p54)

がんばろう。平均年齢50歳以上の方々。
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17通目でようやく返事が。

2012-04-11 | 手紙
バスで行って、電車で帰ってきました。
さて、何をもっていこうと本棚を見回すと、
買ったのに、読まずにあった本に目がいきます。
ということで、
見城徹・藤田晋著「憂鬱でなければ、仕事じゃない」(講談社)を
持っていくことに。
近所田舎にすんでいるのですが、
雨は朝がパラパラ。帰りもパラパラという具合。
帰ってきてから、だんだんと降り出しました。
車中から山を見れば、
あんなところに、桜が咲いている。
田んぼに水がはってある。
背景の山に桜が咲いている。

まあ、トンネルをぬけながら、
本を読みながら、
車窓から眺めながら、
ということで、
読みやすい本だったので
ゆっくりと読めました。

さてっと、
気になったのが「手紙」を語っている箇所でした。
ということで、それをピックアップ。

まずは、これでしょうか。

「角川書店に入社してすぐ、五木寛之さんと仕事をしたいと熱望し、作品が発表されるたびに手紙を書いた。小説だけではない。短いエッセイや対談でも、掲載されたものを必ず見つけて、感想をしたためた。・・・作家に手紙を書くのは、思いのほか大変なことだ。おべっかではいけない。かといって、単なる批判になってもいけない。本人すら気づいていないような急所をつきつつ、相手の刺激になるようなことを書かなければならない。
初めのうちは、返事がなかったが、17通目でようやく返事が来た。
『いつもよく読んでくれて本当にありがとう。いずれお会いしましょう』奥さまの代筆だった。僕は嬉しさの余り、その葉書を持って編集部を走り廻った。その後、25通目の手紙で、ようやく会っていただけた。」(p122~123・見城徹)

もう一箇所

「僕は幻冬舎を、1993年11月12日に設立登記した。その頃オフィスは四谷の雑居ビルの一室にあり、電話とテーブルが12月にやっと入ったばかりだった。その年末年始の休み中、僕は電車賃を節約するため、代々木の自宅から徒歩で出社し、毎日、作品を書いてもらいたい書き手五人に手紙を書いた。・・・これを十日間続け、都合50人に手紙を出した。50人に手紙を出すのは、大変である。それもおざなりではなく、相手の心に突き刺さるものでなければならない。ベテラン作家ならたくさんの著作を読み返し、大物ミュージシャンなら多くのアルバムを聴き直さなければならない。一人につき便箋で七、八枚。もちろん、何回も書き直す。食事はコンビニ弁当で済ませて、朝九時から夜中の二時まで手紙を書いていた。自分は極端なことをやっている。その自負だけが僕を支えていた。」(p60~61・見城徹)





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おまえがやれ。

2012-04-10 | 短文紹介
「ウメサオタダオ展」は、東京でも開催されたのですが、いかなかった(笑)。ということで「百聞は一見にしかず」ではなくて、一見せずに百聞をウロウロすることに。

そうすると、小長谷有紀さんの名前が目につきます。
「ウメサオタダオ展」のカタログである
「知的先覚者の軌跡 梅棹忠夫」の責任編集者が小長谷さん。
他にも
「梅棹忠夫のことば」(河出書房新社)
「ウメサオタダオと出あう 文明学者・梅棹忠夫入門」(小学館)
「梅棹忠夫の『人類の未来』」(勉誠出版・小長谷有紀編)
「ひらめきをのがさない! 梅棹忠夫、世界のあるきかた」
(勉誠出版・小長谷有紀・佐藤吉文編)

とあり、そういえば、
2011年4月に中公文庫にはいった
梅棹忠夫著「裏がえしの自伝」の解説も小長谷有紀氏です。
ちなみに、この解説の題はというと、
「長大な知的山脈をたのしむための、オリエンテーリング」となっておりました。この「裏がえしの自伝」に『南極越冬記』への言及がありましたので、ここに引用しておきます。

「越冬隊がかえってきた。越冬隊長の西堀栄三郎博士がかえってきた。それは、たいへんなさわぎであった。各地で報告会や講演会がひらかれ、新聞・雑誌はおどろくべき分量のスペースをその報道にさいた。問題は本であった。単行本であった。そのとき、わたしの敬愛する桑原武夫大先輩から指令がきた。西堀栄三郎著『南極越冬記』という本を、おまえがつくれ。桑原さんのいわれることには、西堀にはどうせそんな本をまとめる能力はないから、おまえがやれ。出版社は岩波書店、岩波新書の一冊である。話はもうできている。・・・・問題は材料がどれだけあるかだ。素材なしではなにもつくれない。西堀隊長は日記をつけておられるであろうか。西堀隊長のもってかえってこられた『素材』をみて、おどろいた。大判の重厚な装丁のノートブックに、ぎっしりと日記がかかれていた。ほかに、科学的エッセイ、講演原稿など、山のようにある。ものすごい分量である。これをどうして一冊にちぢめるか、それが問題である。・・・大ナタをふるって所定の分量にまでちぢめるのがわたしの役だった。
このままの形ではどうにもならないので、それをすべて原稿用紙にうつしてもらった。200字づめ原稿用紙で数千枚あった。わたしは岩波書店の熱海伊豆山の別荘にこもった。ことがらの推移を追いながら、しかも項目ごとにまとめ、ところどころに科学的エッセイをはさむ。自分で原稿をかくのではなく、もっぱら原稿をけずる仕事だから、らくといえばらくなのだが、けっこう気ぼねがおれた。割愛するのにしのびないおもしろい話がたくさんあるのだが、新書一冊という制限のあることとて、大はばにけずらざるをえなかった。一週間以上もかかったかとおもう。作業はついにおわった。そして、異例のはやさで、西堀栄三郎著『南極越冬記』が世にでた。岩波新書としては、ずいぶん部あついものになった。売れゆきは爆発的だったといってもよいだろう。わたしもほっとした。」(p84~86)


ちなみに、
「南極越冬記」は1957年2月15日~1958年2月24日までの一年間の生活記録。
1958年7月に、西堀栄三郎著「南極越冬記」が出ており、
1969年7月に、梅棹忠夫著「知的生産の技術」が出ます。
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「無目的」をお選びなさい。

2012-04-09 | 短文紹介
ネット検索していたら、鶴ヶ谷真一著「月光に書を読む」(平凡社・2100円)のことを思い出しました。そういえば、新刊では、躊躇して購入しなかった。と、古本検索すると、ありました。

アニマ書房(川崎市麻生区)。先払いとなっております。

本代1000円+送料300円=1300円なり。

届いたので、後半を占める「読書人柴田宵曲」の箇所を読み出す。
最初の方に、こんな箇所がありました。

「いつのことなのか、妹によれば、柴田氏の前途を案じた母方の祖母の遊亀さんが柴田氏に金を手渡して、占いに行ってごらんなさいと言った。占者はさんざん考えたすえに、『貴君は流行(はや)りすたりのない職業をお選びなさい』と言い、それから、言いにくそうに『お気の毒ですが、僧侶になれば高僧智識になれます』と言い添えた。柴田氏はそのとき、自分の本質を言い当てられたという思いをしたのではないだろうか。あえて引くにも及ばないようなこの一事は、しかしその後の宵曲の人生に、かすかな影を投じることになったのかもしれない。」(p125)

あとの方には、

「ある日、鼠骨の言った『戦争だもの勝つことも敗けることもあるよ』という言葉に救われたと、宵曲は後に述懐している。これについて、オルテガ・イ・ガゼットの次の言葉が思い出される。『一民族は勝つことを知るのみでなく、敗れることも心得ていなければならない。敗北を生のさまざまな相貌の一つと見る用意がないということは、精神的な貧困のしるしである』。」(p202)

うん、オルテガの引用は、鶴ヶ谷さんでしょうね。

なめらかな、鶴ヶ谷真一氏の文章に載って引用もスルスルと読みついでゆくと、最後の方は、あれもこれも書きのこしが無いようにという配慮からか、締めのまとまりをつけるためか興味深いのでした。そのなかの森銑三の「読書人柴田宵曲」からの引用は、これも以下に孫引きしておきましょう。

「柴田氏の著書の悉くは、五六十年にも及ぶ永い読書生活の副産物と見べきものであつた。その読書生活に依つて得た、該博なる蘊蓄の一部分が凝集して、それらの著書は自らにして成つた。さうした読書生活があつて、それからその著書が生れるといふ結果を来したのである。・・・氏は無目的の読書家だつた。・・・・」(p225)

ここから、きっかけで柴田宵曲を読めればよいのですが、2冊ぐらいしか読んでないなあ。
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出来栄えは気にせんと。

2012-04-08 | 詩歌
佐藤フミ子詩集「つなみ風花胡桃の花穂」(凱風社)に掲載された写真のなかに、「一人暮らしになった佐藤フミ子さん。大学ノートにびっしり書き込まれた短歌を見せてくれた。(陸前高田市小友町の仮設住宅、2011年11月28日、森住卓撮影)」と脇書きがある一枚があります。

その印象がつよかったせいか、
今日(4月8日)の産経抄に掲載されている河野裕子さんのエピソードが目をひきました。「2年前の夏、64歳で世を去った歌人の河野裕子さん」です。

「河野さんは大学卒業後、しばらく滋賀県の中学校で教諭を務めている。小欄で河野さんをしのんだとき、当時の教え子から手紙が届いた。元気な先生にたくさん短歌を作らされたと、思い出を語った。『1年に千首くらい、歌の出来栄えは気にせんと、ばーっと作るんです。作っているうちに、言葉が言葉を引っ張ってくるようになったら、しめたもの』。こんなふうに・・・・」

さてっと、
昨日パラリと序講を読みはじめた「聖典講義 白隠禅師座禅和讃」なのですが、
これラジオ放送での講義なのでした。わかりやすいのが、なにより、ありがたいなあ。その序講に、こうあります(うん。ほんの50ページほどしか読んでおりません)。

「吾人は今日お互い学問研究や自己修養に志しては居りますけれども、併しどうも真剣味が欠けて居る。したがって小成に安んじ小智に甘んじて、口には粉骨砕身と称しながら真の気概を欠いている。・・・見る、聞く、知るのみでなく、安んずる所を見出し掴まなくてはならない。」

う~ん。「安んずる所を見出し」か。
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和讃誦(ず)すかな。

2012-04-07 | 詩歌
表紙のわきに「3・11詩集陸前高田の冬と春」と書かれた、
佐藤フミ子さんの歌集「つなみ風花(かざはな)胡桃の花穂(はなほ)」(凱風社)が一読印象に残っております。そこに、こんな箇所がありました。

「3月11日の地震のときは、浜辺で若い人たちとワカメの芯抜き作業をしていたが、夫が軽トラックで迎えにきてくれた。一人ではとても逃げ切れなかったと思う。二人一緒に避難したが、夫は息子が自分たちを捜しに家へ戻って流されたことを苦にしており、息子の位牌を見ては涙を流していた。そして避難所暮らしの間に体調を崩し、2011年11月1日12時に他界した。佐藤家は華蔵寺(けぞうじ・臨済宗妙心寺派)の檀家で、夫と長男の墓もここに建てるつもりだ。・・・」(p91)

この本の和歌に

 大波に
 呑まれて消えし
 息(こ)の為に
 白隠禅師の
 和讃誦すかな

このページには注が下についておりました。
「白隠は18世紀の禅宗僧侶。臨済宗14派は全て白隠を中興としているため、現在も、座禅のときに白隠の著『座禅和讃』を読誦する。」(p27)

ここが、印象に残っておりました。
さっそく、古本を注文。それが今日届きました。

素人なので、まずは安い本をと、
天岫接三著「聖典講義 白隠禅師 座禅和讃」を注文。
古本定価300円+送料340円=640円なり。
本は昭和9年発行で、赤鉛筆で線引きあり、脇に書き込みあり。
それで安かったのですが、丁寧の読んでの線引き、
というのが伝わってくるようです。
注文した古本屋は、樹心堂(大阪府和泉市)。
ゆうメールの宛名ラベルには
「仏教・キリスト教・哲学関連古書取扱
 生き方・在り方の探究   樹心堂」とあります。

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読者を予想せず。

2012-04-06 | 短文紹介
ちょっと前に、
のりりんさんからコメントをいただきました。
うん。嬉しかったです(笑)。

ということで、
小長谷有紀編「梅棹忠夫のことば」(河出書房新社)を紹介。
右ページに梅棹忠夫の言葉を引用。
左ページに小長谷有紀さんの、その引用についての解説。
ゆったりと短い言葉で読みやすい入門書となっております。
そこに、こんな箇所がありました。

まず、右ページに

「家庭内の雑誌や新聞の発行、というようなこともおこなわれるようになるだろう。小説をはじめとする文芸の運命も、そのあたりとかかわりあっているとおもう。文芸の究極形態は、読者を予想せず、自分が自分にむけてかくということになるのではないだろうか。セルフ・コミュニケーションである。」(著作集第9巻)p106

左ページにある、
小長谷さんの言葉
その最後の2行を引用。

「また、アクセスされないブログは、かぎりなく自分のための、自分によるコミュニケーションになってしまう。ツイッターはその反動的現象かもしれない。」p107



ちなみに、p30には、
知的生産の技術から、この引用がしてありました。


「カードは、わすれるためにつけるものである。
このことは、カードのかきかたに重大な関係をもっている。
カードをかいてしまったら、安心してわすれてよいのである。
そこで、カードをかくときには、
わすれることを前提にしてかくのである。
つまり、つぎにこのカードをみるときには、
その内容については、きれいさっぱりわすれているもの、
というつもりでかくのである。
したがって、コードなしの記号や、
自分だけにわかるつもりのメモふうのかきかたは、
しないほうがよい。
一年たてば、
自分でもなんのことやらわからなくなるものだ。
自分というものは、時間がたてば他人とおなじだ、
ということをわすれてはならない。」


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な~んにも芸がないでねぇけ。

2012-04-05 | 詩歌
佐藤フミ子著「つなみ風花胡桃の花穂」(凱風社)という本を昨日読みました。
陸前高田の津波被害にあわれた佐藤フミ子さんの歌集です。
短歌を五行にわけて、ゆったりと載せてあります。

佐藤フミ子さんは1928年(昭和3年)9月生まれ。
編集部でまとめた履歴が本の最後に掲載されておりましたので、
そこからすこし引用。

「戦後の暮らしのなかで家業のかたわら、毎月『短歌教室』に通って短歌を詠んでいた。これは同級生から『ごはん食べて、寝て、起きて、死んでしまったら、な~んにも芸がないでねぇけ』と言われて始めたもので、30年くらいずっとそのときどきの思いを書き留めてきた。読売新聞や朝日新聞の『歌壇』にも投稿し、読売新聞には50回くらいは掲載されたが、そうした掲載紙もすべて、今回の津波で流されてしまった。」(p91)

それでは、83歳の佐藤フミ子さんの短歌を数首引用してみます。

『早ぐコ』
津波がくるぞと
老いし夫(つま)
軽トラに乗る
何も持たずに


ひっきりなしに
余震のつづく
其の中を
公民館に
いっきに逃げる

公民館もだめだ
もっと上にとふ
男の叫びに
足のがたつく

一つ取れと
オニギリの箱が
運ばれぬ
細き海苔巾
梅干もなく

パイプ組み
シートの湯桶
十日目の
自衛隊の風呂に
皆手を合わす

息(こ)も家も
波にさらはれ
避難所に
雑炊(ぞうすい)すする
鼻水啜(すす)る

観るかぎりの
瓦礫の続く
その中に
吾が息の姿
探す親かな

大波に
呑まれて消えし
息の為に
白隠禅師の
和讃誦(ず)すかな

避難所に
綿入半天
ベストなど
差入れのあり
難民は哭(な)く

今朝も降る
瓦礫の山に
避難所に
無情の雪に
心まで冷ゆ

悲しみに
くれてる筈が
復興と
働く姿に
頭が下がる

あればある
なければ無いの
暮しかな

ハエ叩く
音の仮設や
右ひだり




うん。読めてよかったと思っております。
佐藤フミ子さんの写真も、被災地の写真も、ところどころにはさまれております。「大学ノートにびっしり書き込まれた短歌を見せてくれた」とノートを手にするフミ子さんの写真が印象に残ります。

そういえば、この温かい手作りのような一冊が、
どうしてできたのかを「まえがき」で森住卓さんが書いております。
そこから、この箇所を引用。

「七月、JVJA写真集『3・11メルトダウン 大津波と核汚染の現場から」(凱風社)が完成した。その中に佐藤フミ子さんと夫の貞美さんの写真を使わせていただいたので、お礼に同書を献本した。その後一月ほどして、佐藤フミ子さんから同じ日付の消印で二枚のはがきが届いた。一枚には、写真集へのお礼とその後の暮らしぶりが書かれていた。息子を亡くした老夫婦の不自由な避難所の暮らしが目に見えるようで、その後の暮らしを追い続けなかった申し訳なさがこみ上げてきた。もう一枚のはがきには・・・・『うた』が十五首、エンピツで縦にびっしりと書かれていた。佐藤フミ子さんの悔しさと無念さ、当時の情景やそのときの空気や臭いまでが感じられる、臨場感に溢れた『うた』に衝撃を受けた。・・・」(p11)

こういう一冊をつくってくださった方々に、
ありがとうを言いたくなります。
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四月五日の朝あけむとす。

2012-04-04 | 詩歌
新刊の岡野弘彦詩集「美しく愛しき日本」(角川書店)のなかに
「ミサイルと桜前線」がありました。
初出一覧で確認すると、
「短歌」2009年5月号に掲載された作品。
そうか。
ちょうど、今頃の季節だったのでした。
今年を詠んでいるような錯覚を覚えてしまうのは
詩歌の力でしょうか。それとも
古典としての力でしょうか。
そこから、すこし引用。

ミサイルが空ゆく日なり。うら若き阿修羅の像を われは見にきつ

島のいくさに むごく果てたる友の顔。つね若くして われを責めくる

若き二十の君を忘れず。面澄みて 阿修羅のごとく剛き脛こぶら

われつひに 修羅におちゆく身なれども 桜を見れば 心なごみぬ

ミサイルはまだ放たれず。日本の桜のあはれ 胸にしみくる

空襲のさなかの桜。幹ごとに篝(かがり)のごとく 燃えほろびゆく

幽鬼のごとく 人らほろびし列島の かの夏の日の いまよみがへる

かなしみは人に告げねど 頭を垂りて 桜の道を今はかへらむ

列島をくれなゐ深く北上す。桜前線も ミサイル弾も

暗然と予感に耐へて仰ぐ空。四月五日の朝あけむとす

顔のなき骸(むくろ) つぎつぎ立ちあがり われにせまりて責めやまぬなり

後の世に われをかなしむ人あれな。今生の花 あはれ散りゆく
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美しくなかしき。

2012-04-03 | 詩歌
岡野弘彦歌集「美しく愛しき日本」(角川書店)を
パラパラとめくってみました。
短歌は、内容がわからなくても、とにかくも、
私のような素人でも、
それなりに見ることができるしあわせ。

ところで、日下公人氏がドナルド・キーン氏の
鬼怒鳴門(キーン・ドナルド)という日本名について、
書いていたのが、気になっておりました。
そうすると、
読売歌壇(2012年4月2日)の岡野弘彦選の
さいしょの一首に。

日本人はもっと母国をふかく知れ怒鳴りたそうな鬼怒鳴門
   宮崎市 松久寅雄

評】 なるほど、この漢字表記からははげしい印象を受けるが、実際のキーンさんはもの静かで、日本への深い理解と励ましからは、常に大きな勇気と反省を与えられる。


それでは、歌集「美しく愛しき日本」にある、「怒り」という言葉が登場する短歌を引用していきます。

「出雲なす神」(p11)
青梅に舟傾けて没(い)りゆきし 事代主(ことしろぬし)の怒り おもほゆ

「海彼の楽」(p40)
死刑囚学生の歌読みゐつつ 唐突に身の怒り わきくる

「美しく愛しき日本」(p156・164)
日本人はもつと執ねく怒れとぞ思ひ、八月の庭に立ちゐる

原爆の怒りをすらや、みづからのあやまちの如く言ふに おどろく

怒りすらかなしみに似て口ごもる この国びとの 性(さが)を愛(を)しまむ
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ずっと参考になる。

2012-04-02 | 短文紹介
産経新聞2012年4月2日。
今日の新聞です。
石原慎太郎のコラム「日本よ」には、
そばで接した天皇陛下のお姿が
記録されております。

うん。読んだ後に思い浮かんだのは、
どなたかが、書かれることを、
私はのぞんでいたのだな。
ということでした。
ここには、読みたかった内容が、
記録されておりました。

それは、大震災の19日後に
「陛下が東京都足立区の東京武道館に避難してきている福島県民を見舞われた時のこと」から具体的に語られておりました。その際の陛下と石原氏のやりとりが、ここに書かれておりました。

「・・控え室で過ごされることになってその間私は同席し、発災後間もなくヘリで飛んで視察に赴いた福島、宮城、岩手の各都市の惨状を報告し、すでにかつて他の病気での手術を受けておられる陛下にはとても無理としても、若く元気なご子息の両陛下を名代として出来るだけ早く現地に見舞いに差し向けられてはいかがと僭越にも建言させていただいた。
その間皇后陛下は一々頷いて私の言葉を聞いておられたが、陛下はなぜかただ黙ったまま表情も見せずに聞いておられた。
やがて時が来てお立ちとなり、先行して部屋を出てお見送りのために玄関口に立っていた私の所へ何故か突然陛下がつかつかと歩み寄られ、小声で、しかしはっきりと、『東北へは私が自分でいきます』といわれたものだった。」

さて、ここから2面へと続いておりました。
被災県へと出かけた天皇皇后両陛下のお姿、その後の御病状の推移は、皆さん何度かテレビで御覧になったでしょうから、ここでは省きます。今年の3月11日、東京の国立劇場で行われた東日本大震災の犠牲者追悼式典に臨席した石原慎太郎氏は、どのような思いで陛下を見つめておられたか、その箇所を引用しておきます。


「追悼の記念式典に来臨された陛下はやはり前よりも痩せられてみえたが、歩く御姿はむしろ普段よりも凛として見うけられた。式辞を述べられ退席される陛下に出来れば私は、二階正面から陛下の御健勝を祈って天皇陛下万歳を叫びたかったが、なぜか司会者は天皇のご退席は着席のままお見送りするようにと案内していたのでそれはかなわなかった。
一国の元首を兵士に例えるのは非礼かも知れぬが、しかし陛下はその身の危うさを顧みることなく見事な君主として、そして見事な男として、その責を果たされたものだと思う。・・・・・」

どれも、私などには、テレビではうかがい知れなかったことで、
書かれなければ、知りえないことでした。
そういえば、
青山やすし著「東京都副知事ノート」(講談社+α文庫)に
こんな箇所があったなあ。

「『石原さんには暴言が多いから、副知事は大変でしょう』
とよく言われた。
私は、そうは思わなかった。
『いや、ビーン・ボールの投げ方がうまいだけですよ。時にはデッド・ボールになるけど』と答えたら、週刊誌にそう書かれた。
『下手に世論調査を参考にするより、石原さんにどう感じるかを聞いた方がずっと参考になる』と答えたら、これも書かれた。
どちらも、私の本音だ。」(p249~250)
コメント (2)
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なにがすごいと言って。

2012-04-01 | 詩歌
ちょっと、気になっていた短歌がありました。
毎日新聞3月25日の毎日歌壇。
その伊藤一彦選のはじまりの一首です。

 定食屋湯呑みにかかれた人生訓
こらえてたえてぐっと飲み干す
 東大阪市 大原美幸

【評】元気な時なら何でもなく読み過す言葉が心にしみることがある。定食屋の湯呑みという小道具が読者を泣かせる。

うん。この人生訓というのは、いったい、どんな言葉が書かれていたのだろう。そんなことを、つい思い描く私がおります。
さてっと、以前、段ボール箱の整理をした際に、在りかをたしかめておいた都築響一著「夜露死苦現代詩」(新潮社)を、おもむろに取り出す機会がきました(笑)。うん。段ボールで本を寝かせて、ちょうど読み頃となっておりました(はじめてパラパラめくったときには、この本の下ネタに、ついつい引張りこまれてしまったのでした。このたびは、玉石混交の玉を拾い分けることができました)。

「夜露死苦現代詩」の
第14章「人生に必要なことは、みんな湯呑みから教わった。あるいは詠み人知らずの説教詩」という箇所があります。その最初は「ぼけたらあかん長生きしなはれ」という詩が引用されておりました。
まずは、その詩の作者について
「『ぼけたらあかん』を書いたのは、大阪府藤井寺市の天牛将富さんという方である。その名字から有名な古書店である天牛書店の創設者・天牛新一郎氏としばしば間違われているようだが、天牛将富さんは出版業界とは関係のない一般人で、1987年77歳で亡くなっている。今回お話を聞けた長男の敏之さんによると、将富さんは病弱で、6回も手術を受けるなど『まさに七転び八起きの人生で、仕事という仕事はしていませんでしたが、詩は好きで、ほかにもたくさん書いていました』。『轍』と題した自分史を自費出版したこともあるそうだ。」(p225)

では、大坂では、ポピュラーかもしれませんが「ぼけたらあかん長生きしなはれ」を引用します。


  年をとったらでしゃばらず
  憎まれ口に泣きごとに
  人のかげぐち愚痴いわず
  他人のことは誉めなはれ
  知ってることも知らんふり
  いつでもアホでいるこっちゃ

  勝ったらあかん負けなはれ
  いずれお世話になる身なら
  若いもんには花もたせ
  一歩さがってゆずりなさい
  いつも感謝を忘れずに
  どんな時でもおおきにと

  なんぼゼニカネあってでも
  死んだら持っていけまへん
  あの人ほんまにええ人や
  そないに人から言われるよう
  生きてるうちにバラまいて
  山ほど徳を積みなはれ
  
  そやけどそれは表向き
  死ぬまでゼニを離さずに
  人にケチやと言われても
  お金があるから大事にし
  みんなベンチャラいうてくれる
  内証やけどほんまだっせ

  わが子に孫に世間さま
  どなたからでも慕われる
  ええ年寄になりなはれ
  頭の洗濯生きがいに
  何かひとつの趣味もって
  せいぜい長生きしなはれや
  ぼけたらあかん ぼけたらあかん 長生きしなはれや


 さてさて、この章では、あとにこんな指摘をしておりました。

「すごい。なにがすごいと言って、詩自体の出来もさることながら、それを気に入った人が自分で紙に書き写し、壁に張り出し、それを気に入った人がコピーを持ち帰り、また壁に張る。そうやって書籍でもなく、ネットですらなく、完全に手から手へと受け渡され、広がっていく詩があることが、なによりすごい。・・・その作者を知らないままに。21世紀の現代日本でそういう伝播のスタイルが存在している事実に、僕はちょっと感動する。『ぼけたらあかん』は湯呑みに手拭い、CDに色紙とあらゆるメディアに乗って、日本中に広がりつづけている。その存在を知らないのは現代詩業界と文学評論家ぐらいだろう・・・」(p226)

うん。私もこうしてブログに引用しているのでした。
そうしてこのテーマは、最後の「あとがきにかえて 相田みつを美術館訪問記」へとすんなりとつながってゆきます。

この本で、今回、私が魅せられたのは

 第2章「点取占い」
 第6章「玉置宏の話芸」

今回。本を寝かせておく醍醐味がありました(笑)。
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