ネット検索していたら、鶴ヶ谷真一著「月光に書を読む」(平凡社・2100円)のことを思い出しました。そういえば、新刊では、躊躇して購入しなかった。と、古本検索すると、ありました。
アニマ書房(川崎市麻生区)。先払いとなっております。
本代1000円+送料300円=1300円なり。
届いたので、後半を占める「読書人柴田宵曲」の箇所を読み出す。
最初の方に、こんな箇所がありました。
「いつのことなのか、妹によれば、柴田氏の前途を案じた母方の祖母の遊亀さんが柴田氏に金を手渡して、占いに行ってごらんなさいと言った。占者はさんざん考えたすえに、『貴君は流行(はや)りすたりのない職業をお選びなさい』と言い、それから、言いにくそうに『お気の毒ですが、僧侶になれば高僧智識になれます』と言い添えた。柴田氏はそのとき、自分の本質を言い当てられたという思いをしたのではないだろうか。あえて引くにも及ばないようなこの一事は、しかしその後の宵曲の人生に、かすかな影を投じることになったのかもしれない。」(p125)
あとの方には、
「ある日、鼠骨の言った『戦争だもの勝つことも敗けることもあるよ』という言葉に救われたと、宵曲は後に述懐している。これについて、オルテガ・イ・ガゼットの次の言葉が思い出される。『一民族は勝つことを知るのみでなく、敗れることも心得ていなければならない。敗北を生のさまざまな相貌の一つと見る用意がないということは、精神的な貧困のしるしである』。」(p202)
うん、オルテガの引用は、鶴ヶ谷さんでしょうね。
なめらかな、鶴ヶ谷真一氏の文章に載って引用もスルスルと読みついでゆくと、最後の方は、あれもこれも書きのこしが無いようにという配慮からか、締めのまとまりをつけるためか興味深いのでした。そのなかの森銑三の「読書人柴田宵曲」からの引用は、これも以下に孫引きしておきましょう。
「柴田氏の著書の悉くは、五六十年にも及ぶ永い読書生活の副産物と見べきものであつた。その読書生活に依つて得た、該博なる蘊蓄の一部分が凝集して、それらの著書は自らにして成つた。さうした読書生活があつて、それからその著書が生れるといふ結果を来したのである。・・・氏は無目的の読書家だつた。・・・・」(p225)
ここから、きっかけで柴田宵曲を読めればよいのですが、2冊ぐらいしか読んでないなあ。
アニマ書房(川崎市麻生区)。先払いとなっております。
本代1000円+送料300円=1300円なり。
届いたので、後半を占める「読書人柴田宵曲」の箇所を読み出す。
最初の方に、こんな箇所がありました。
「いつのことなのか、妹によれば、柴田氏の前途を案じた母方の祖母の遊亀さんが柴田氏に金を手渡して、占いに行ってごらんなさいと言った。占者はさんざん考えたすえに、『貴君は流行(はや)りすたりのない職業をお選びなさい』と言い、それから、言いにくそうに『お気の毒ですが、僧侶になれば高僧智識になれます』と言い添えた。柴田氏はそのとき、自分の本質を言い当てられたという思いをしたのではないだろうか。あえて引くにも及ばないようなこの一事は、しかしその後の宵曲の人生に、かすかな影を投じることになったのかもしれない。」(p125)
あとの方には、
「ある日、鼠骨の言った『戦争だもの勝つことも敗けることもあるよ』という言葉に救われたと、宵曲は後に述懐している。これについて、オルテガ・イ・ガゼットの次の言葉が思い出される。『一民族は勝つことを知るのみでなく、敗れることも心得ていなければならない。敗北を生のさまざまな相貌の一つと見る用意がないということは、精神的な貧困のしるしである』。」(p202)
うん、オルテガの引用は、鶴ヶ谷さんでしょうね。
なめらかな、鶴ヶ谷真一氏の文章に載って引用もスルスルと読みついでゆくと、最後の方は、あれもこれも書きのこしが無いようにという配慮からか、締めのまとまりをつけるためか興味深いのでした。そのなかの森銑三の「読書人柴田宵曲」からの引用は、これも以下に孫引きしておきましょう。
「柴田氏の著書の悉くは、五六十年にも及ぶ永い読書生活の副産物と見べきものであつた。その読書生活に依つて得た、該博なる蘊蓄の一部分が凝集して、それらの著書は自らにして成つた。さうした読書生活があつて、それからその著書が生れるといふ結果を来したのである。・・・氏は無目的の読書家だつた。・・・・」(p225)
ここから、きっかけで柴田宵曲を読めればよいのですが、2冊ぐらいしか読んでないなあ。