森功著「鬼才 伝説の編集人齋藤十一」。
その第四章「週刊誌ブームの萌芽」のはじまりの頁に、
「週刊新潮創刊号」の表紙写真が載っています。
その裏ページに新田次郎の仕事机にむかう写真。
第四章は、新田次郎のことが語られてはじまっていました。
新田次郎著「小説に書けなかった自伝」からの引用もあり、
編集者と書き手との両方から浮き彫りにしてゆくのでした。
それはそうと、新潮文庫の「小説に書けなかった自伝」は、
パラパラ読みしただけでしたが、この機会に最後まで読む。
最後まで読むと、印象が違ってきます。
新田次郎が気象庁をやめてからのことでした。
家での妻・藤原ていとのやりとりが出てくる。
そして、この新潮文庫には、
本文の終りに年譜があって、さらに、
そのあとに2人の文が掲載されていたのでした。
藤原てい「わが夫 新田次郎」。
藤原正彦「父 新田次郎と私」。
はい。自伝の最後の方と、そして2人の文とを読む喜び。
3人の視点が、それぞれに交差する醍醐味がありました。
編集者による行き届いた配慮によって、文庫が光ります。
ここは、藤原ていさんの文のはじまりを引用することに。
「早春の光の中で、雪どけの水が小さな川になって流れていた。
その坂道を母の後について私は下っていった。
今日は見合いの日である。『今度こそは藤原さまだからね』と、
くりかえし母に云われていた。わざわざさまをつけるのは、
母が相手の家を尊敬していたからである。
それまでにも何回か見合いはしているのだが、
すべて失敗をしていたので、母は今度の見合いには
異常なほど熱を入れていた。
きめられた上諏訪駅前の旅館の玄関を入った。
背を丸めて階段を上る母の後姿を見た時に、
妙に母がいとおしくなって来た。
お前はうれ残りになると、なかば脅迫めいたことを
いつも云われていたけれども、その母の気持を
考えてやりたいような気持になっていた。・・」(p254~)
うん。藤原正彦による家族の切り取り方の妙もあり、
引用しようとするとキリがなさそうなのでここまで。
はい。わたしは、読めてよかった(笑)。