コロナ禍の1月は、今日と明日でおわります。
さてっと、古本でミシェル・シュネデール著、千葉文夫訳
『グレン・グールド 孤独のアリア」(筑摩書房・1991年)が
200円で手にはいる。
その本のはじまりは
「1964年のことだった。それまで輝かしい演奏家として
名を馳せていたカナダのピアニストのグレン・グールドは、
コンサート活動から完全に身をひいてしまった。
1982年に死去するまで、その後の彼はレコード録音、
ラジオおよびテレビ番組、・・・文章を書くなどの
仕事以外はやらなかった。・・・」(p5)
はい。1月の演奏会の様子も出てきます。
「1957年1月。その晩、グールドは
レナード・バーンスタイン指揮によるニューヨーク・フィルと
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第二番を演奏することになっていた。
協奏曲の演奏は9時半開始の予定だった。
・・・・・・・
午後はずっと眠って、7時半に起きると、部屋から外に出ることなく、
協奏曲を二度ばかりさらってみた。奇妙な演奏法だった。
ほとんど四六時中はめている手袋を脱ぐと、部屋にあった
ピアノには触らず、虚空に指先を動かして演奏した。室内を歩き回って、
顎でオーケストラを指揮し、ふたつのパートを声をはりあげて歌うと
いうありさまだった。8時半頃、腕から指先までを熱い湯にひたす
儀式をはじめ、それが1時間近くつづいた。
カーネギー・ホールに彼が到着したのは、
自分の出番の2分前のことだった。
極地探検にでも出かけるようないでたちだった。
毛皮のコートや服を三重か四重に着込んで・・
その下には太い毛糸で編んだぼってりしたセーターを着ていた。」
(p42~43)
以下も1月からの引用。
「1955年1月という時点において、すでに
グールドはカナダではスターだった。・・・・
アメリカ・デビューはワシントンのフィリップス・ギャラリー
が舞台となった。1955年1月2日の午後、グールド22歳のときである。
・・・・
この『デビュー』以来、彼が守り抜いてきた方針がある。
要するに演奏に悦びを感じる作品しかコンサートでとりあげない
ということ・・・・
1月11日の晩はニューヨークのタウン・ホールでのデビューとなった。
『ニューヨーク・タイムズ』紙の批評家はこの新人の出現に触れて
『グールド氏の演奏のきわだった特徴は、
聴衆をして音楽を聞く気分にさせることにある』と書いている。
・・・・」(p46~47)
はい。1月のグレン・グールド。
「腕から指先までを熱い湯にひたす儀式を・・1時間近く」
というのが、忘れられない箇所となりました。