後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

酒の好きな自分にとって大変楽しい「カナの婚礼での奇跡」

2010年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

新約聖書には身につまされるエピソードが散りばめてあり興味が尽きません。

今日のカトリック小金井教会の山本神父様の説教は、ヨハネによる福音書のカナの婚礼の宴会でイエス様が行った最初の奇跡物語です。

宴会で皆がぶどう酒を飲み、足りなくなります。イエス様が6ケの石がめに入れた水を一瞬のうちに品質の高級なぶどう酒にするのです。聖書に明記してありますが、一個の石がめに少なくとも2メトレテス(80リットル)入るのです。6個ですから480リットルです。

酒飲みにとって思わず頬がゆるみます。宴会に200人出席していたとしても1人あたり2.4リットルの高級なブドー酒が飲めるのです。笑いが止まりません。

何故、高級ブドー酒と断言出来るのでしょう?それも聖書に書いてあります。

ーーーー世話役がぶどう酒に変わった水の味見をした。、、、そして花婿を呼んで言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったらころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」---この部分を読むとつい笑いがこみ上げて来ます。若いころの私は、よく初めにドイツ・モーゼルの美味しい葡萄酒を飲み、酔ってきたら国産のにしたものです。(年をとったので現在は弱いビールだけになりましが、、、)

酒の飲み方は現在も2000年前も変わらないのです。こんな現実的な描写を読むとイエスが水を葡萄酒に変えた奇跡を信じてしまいます。実に楽しい奇跡です。

新約聖書にはその他の奇跡も書いてあります。私は信者ですから奇跡は全て本当に起きたと信じています。

最後にヴェロネーゼの「カナの婚礼」の絵画をお送りします。カナの婚礼の出席者が16世紀のイタリヤ人の服装をしているのも面白いですね。

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画像のソースページ: blogs.yahoo.co.jp/<wbr></wbr>galleryimozuru/34240008.html

ナポレオンのイタリア遠征(1796-1797)では、フランスに持ち帰ったヴェロネーゼの「カナの婚礼」(1562‐63)も忘れてはならない。
 当初から美術品の略奪が計画されていた。1793年に開館したルーヴル美術館のコレクションとしてである。フランスが各地で美術品を略奪した根拠は、「人類共通の遺産である美術品を管理し、人類の進歩に貢献する」ためだとか。とんでもない言い分であった。

 ヴェロネーゼ「カナの婚礼」は、ヴェネツィアのサンジョルジョ・マジョーレ教会・修道院(ベネディクト会)の食堂に飾られていた。ドッカーレ宮殿の側からは1日中、海に浮かぶ妖精のように美しい姿を望むことができる。絵の主題は、婚礼に招かれたキリストが瓶の中の水をワインに変えたという最初の奇跡を描いたものだが、むしろ当時の風俗画である。


毎日寒いので温室のランの花々をご覧になって暖かい気分になって下さい

2010年01月17日 | 写真

木枯しの中を歩いていると体が凍るようになります。しかし神代植物園の温室に入ると湿った暖かい空気が身を包みます。そこは常夏の別世界です。熱帯の花々が冬でも咲いています。先日撮って来たランの花々の写真をご覧になり暖かくなった気分でお楽しみ下さい。

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この前の記事の関連写真

2010年01月17日 | 写真

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(上の写真の出典:Wikipedeaのインディアン戦争の項目の挿絵)

インディアン戦争とは、1622年から1890年の間の、アメリカ合衆国における白人入植者(インディアンが呼ぶところのwhite man)によるインディアンの征服戦争の総称。初期のころからインディアンと入植者の小競り合いが続いていたが、移住者の増加とともに列強による植民地戦争とも絡みながら、大規模化していった民族浄化である。

アメリカ独立戦争以後、豊かで安い地価を求めて入植者が西進するようになると、当然そこに住むインディアンは邪魔者となり、これを排除しようとする合衆国政府とインディアンの撲滅戦争と化した。インディアンは領土を追われ、連邦政府が信託保留する土地、「保留地(Reservation)」に押し込められることを強要され、激しく抵抗するようになる。

クレイジー・ホースらが参加した、インディアンの連合軍がカスター中佐の第7騎兵隊を撃退全滅させるなどの戦果もあったが、ジェロニモの降伏やウンデット・ニーの虐殺以降、インディアンによる軍事的な反乱はなくなった。代って、20世紀になってからの「レッド・パワー運動」に代表される、権利回復要求運動が現代のインディアン戦争となった。

(下の写真の出典:Wikipedeaの北西インディアン戦争1785年ー1795年、の項目の挿絵、グリーンビル条約の交渉)

北西インディアン戦争とは、1794年のフォールン・ティンバーズの戦いにおける合衆国軍の決定的勝利によって戦いは終り、1795年のグリーンビル条約で今日の オハイオ州の大部分を含む領土が合衆国の支配地となった。この戦争は、リトルタートルの戦争(Little Turtle's War)とも呼ばれ、その他の様々な名前で呼ばれることがある。

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21世紀のアメリカの世界支配の様相を考える(2)銃撃戦でインデアンから勝取ったオハイオ州

2010年01月17日 | うんちく・小ネタ

アメリカという国の将来を予想する為には、その国家成立の歴史を考える必要があります。そこで一例としてオハイオ州がどのようにしてアメリカ領になったかを以下に示します。出典は、Wikipedeaの「北西インディアン戦争」の項目にある記述です。それをを簡略に編集しました。なおこの時期はアメリカの領土をめぐってイギリスとフランスがインデアンを手先にして局地的な戦争をしていて複雑な状況でした。

@オハイオ近辺の戦争の経過 [編集]

この地域のイギリス人の中にはアメリカの独立戦争の敗戦の痛みを忘れず、インディアンに武器弾薬を売ってアメリカ人入植者を襲わせる者がいた。1780年代中頃は、インディアン戦士の部隊が小さな襲撃を繰り返し、流血と不信感を募らせることになった。

オハイオ川の両岸におけるインディアンの襲撃はさらに危険なものになっていった。1780年代の中盤から後半にかけて、ケンタッキーのオハイオ川南岸の白人開拓者やオハイオ川の北を旅する人の被害はおよそ1,500名にもなり、その間に白人の方からインディアンに報復することもあった。1790アメリカ合衆国大統領となったジョージ・ワシントンと陸軍長官ヘンリー・ノックスは、ジョシア・ハーマー准将に命じてショーニー族とマイアミ族の居住地に西部方面軍を向かわせた。179010月、ハーマー指揮下の1,453名の部隊が今日のインディアナ州フォートウェインの近くに集結した。ハーマーはジョン・ハーデイン大佐に400名だけの部隊を預けてインディアンの部隊に向かわせたが、インディアン戦士は1,100名も集まっており、ハーディン隊を手ひどく打ち破り、少なくとも129名の兵士を戦死させた。

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@インデアンのミシキナクワ(英名リトルタートル)の奮戦

179111月4の夜明け、セントクレアの訓練が足りない部隊は、200名の非戦闘従軍者と共に今日のオハイオ州フォートリカバリーの近くで宿営していたが、宿営地の守りが疎かだった。リトルタートル、ブルージャケットおよびテカムセに率いられたおよそ2,000名の戦士からなるインディアンの部隊が急襲してアメリカ軍を驚かせ、瞬く間にその準備が足りない警戒線の内側に入って来た。新兵達は慌てふためき、多くの士官共々殺された。アメリカ軍の損害は920名の将兵のうち632名に達し、264名の負傷者も出た。200名の非戦闘の入植者のほとんど全員も殺された。合衆国のインディアン戦争では最も高い損害率となった。

セントクレアの大敗後、ワシントンはマッドと渾名のついたアンソニー・ウェイン少将に新しく訓練の施された部隊を作るよう命じた。ウェインは1793年遅くに新しい合衆国軍の指揮に就いた。豊富な訓練を施した後に、ウェインの部隊はインディアンの保留地に進軍し、セントクレアが敗れた場所にリカバリー砦を築いた。17946月、リトルタートルは再び、アメリカ軍の砦を攻めたが今回は成功しなかった。

ブルージャケットの部隊は戦場から逃げ出してイギリス軍の守るマイアミ砦で体制を立て直そうと図ったが、イギリス軍は砦に入ることを拒んだ。当時イギリスとアメリカはフランス革命の後でジャコバン派の支配するフランスに対抗するため密接な親交関係を築こうとしていた。

1795に結ばれた2つの条約によって、インディアンと合衆国の間の新しい事態が封印された。グリーンビルの条約により、インディアン部族はオハイオの大部分とインディアナの一部を合衆国に明け渡した。また、イギリスではなく合衆国が北西部領土を支配することを認めさせ、白人の捕虜がすべて帰還できるまで10人の酋長を人質として差し出すこととした。一方アメリカとイギリスの間で既に調印されていたジェイ条約では西部の砦からイギリス軍が撤退することを決めた。

こうしてオハイオ州はアメリカの領土になったのです。

此処で指摘したかったのはアメリカ合衆国は一つ一つの州をインデアンとの銃撃戦繰り返してやっと成立した国だったのです。アメリカ人が現在でも銃で自分を守る権利を憲法で保障しているのはこのような建国の歴史的な背景があるからです。(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人