後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

名古屋日動画廊で三輪修さんの個展が開催されます

2010年01月22日 | うんちく・小ネタ

Miwapic21111

このブログでたびたびご紹介しました三輪修さんの個展がいよいよ開催される予定です。

2010年 4月6日~11日、名古屋日動画廊 (http://www.meiten-net.com/syousai.php?key=1021)です。油彩画の大作、100号から小品まで、40~45点を展示される予定だそうです。

彼の油彩の絵は昨年、銀座の日動画廊で小品を見ました。精神的に深い衝撃を受けました。精神的と言っても宗教的という意味ではありません。人間の上質な知性と芸術に対する燃えるような情熱が混然とまじりあった香り高い味わいです。深く沈んだような色彩ですが暗い感じを与えません。見つめていると心が静かに澄んで行き、そして次第に明るい世界に登って行くのです。三輪さんは現在の日本の一流の画家です。しかしあと10年もすると群を抜いて、長く美術史に残る画家になるると信じています。私も家内と名古屋に泊って彼の個展を見に行く予定です。

皆様も可能なら個展へお出かけになられることを心底からお勧めいたします。

上の中世の村の風景画はこのブログで2度もご紹介した油彩です。


花々と人生(3)小さな野の花を愛する鬼家さんの霧が峯、八島湿原の花の写真

2010年01月22日 | 写真

花々と人生という連載を始めました。小さな野の花が好きですというコメントを頂きました。すぐに北杜市の里山に山荘をつくり独りで住んでいる鬼家雅雄さんのブログを思いつきました、サイドバーにある鬼家あんのHPを開き、ブログの項目をクリックすると野の花々の写真を掲載した記事が沢山あります。一例として2007年7月26日記事にある霧ケ峰の八島湿原の花々の写真をご紹介います。花の名前は鬼家さんの記事の御座います。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

Bl_4171 Zukan_81 Zukan_91 Zukan_101 Zukan_131 Zukan_141 Zukan_151 Zukan_161


21世紀のアメリカの世界支配の様相を考える(3)19世紀、アメリカは英米戦争、米墨戦争、米西戦争、イ

2010年01月22日 | うんちく・小ネタ

Declaration_independence1

(上の絵は「アメリカ独立宣言」の項目のWikipediaの挿絵です)

第二次世界大戦の終わった1945年に私は国民学校の3年生でした。進駐軍の命令であちこちを墨で黒々と消した教科書を使いました。当然、アメリカ合衆国については、全ての人々は皆平等で自由な理想国家と教えられました。中学や高校で習うアメリカの歴史については、1776年の独立宣言以来外国を侵略したことのない国家であると教わりました。植民地も作らない崇高な国家であるとも教わりました。そして第5代大統領のモンローがヨーロッパ大陸の諸国間の醜い戦争へ一切干渉しないという宣言を1823年にしたとも教えれました。

すなわち1776年の独立宣言以来、アメリカは戦争という残虐なことを一切したことが無い。植民地を作り、搾取しなかった。倫理的に崇高な国であった。そのような教育を受けたのです。アメリカの占領時代に、文部省が歴史教育をアメリカが気に入るようにしたのです。19世紀のアメリカの戦争の歴史は省略してしまったのです。大学受験で西洋史を選択すると、ヨーロッパ諸国の歴史を詳しく学習します。しかしアメリカの歴史は実に簡略化されていて大学の入試問題にもあまり出題されなかったのです。

ところが普天間基地問題以来、すこし自分でアメリカの独立戦争から第一次世界大戦の間の歴史を調べて見ました。愚かな私は知らなすぎた事に愕然としました。

1823年のモンロー主義宣言は、「これからアメリカがガタガタ立て続けに戦争をするが南北両アメリカ大陸内に限定するからヨーロッパ諸国は一切干渉しないでくれ!その代りアメリカはヨーロッパ大陸には干渉しない」という意味もあったのです。前半分の解釈は、勿論、私の独断です。しかしその後、アメリカは米英戦争でアメリカとフランスの権益を完全にアメリカの領土から追い払ったのです。1848年の米墨戦争ではカリフォルニア、テキサス、ニューメキシコ、ネバダなどの広大な領地をメキシコから武力によって奪ったのです。更に1898年には米西戦争によってスペインからフィリッピン、グアム諸島、カリブ海のプエリトリコなどを奪取したのです。

その間、アメリカ陸軍の騎兵隊はフランスや英国の一部勢力と手を組んだインディアンも果敢に攻撃して19世紀末にはインディアンの全ての部族の掃討戦争を終わったのです。

戦後教育を受けた私はアメリカこそ豊かで、つねに正義を守る自由な平和国家と信じて来ました。しかしベトナム戦争のころからその理解がいささかぐらついて来たのです。しかしアメリカに留学し、アメリカでいろいろな楽しいことを経験した私にとってアメリカを理想の国と信じたいのです。今回、基地移転問題に端を発して、アメリカの19世紀の歴史を調べてみました。

アメリカが植民地を持たなかったのは産業革命に遅れ、植民地争奪戦にヨーロッパ諸国に遅れを取ったに過ぎなかったのです。

20世紀になり、アメリカが強大で豊かな国になった理由は、気候が赤道直下の南米ほど過酷でなかったという幸運に恵まれていただけです。そして第一次大戦と第二次大戦ではアメリカは想像を絶っするほど大きな漁夫の利を手にしたのです。その事は続編で書きます。兎に角アメリカ合衆国ほど巨大な国家は存在していません。それはローマ帝国やジンギスカン大陸国家に比較してもいろいろな意味で巨大です。ことの善悪は別にして日本の将来を考える場合、アメリカの影響を考慮に入れないとしたら大変な間違いを犯します。その事をもう少し詳しく掘り下げて行きたいとも思っています。皆様からのご意見やコメントを頂ければ嬉しく思います。(続く)


あんなに元気だった人がフッと居なくなる

2010年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

055

私達は人の死を経験しながら生きています。知人友人がある時フッと居なくなってしまいます。時々、自分よりかなり若くて、元気だった人が亡くなることがあります。悲しみと同時に非常に不思議な感慨にとらわれます。人間のはかなさが一層強く感じます。

霞ヶ浦で20年間、ヨットを並べて係留していた山吹船長が昨年、アッという間に居なくなりました。白血球ガンでした。2,3ケ月に1回お会いしていました。それぞれの船を出す準備をしながら少しだけ会話を交わします。帰港後に一緒にキャビンの中でコーヒーを飲んだり、カンビールを短時間飲みました。何時も一人です。親切で、ニコニコして私の船の水漏れを直してくれたりエンジンの修理屋さんを紹介してくれました。長話は一度もしない、何かさわやかで、それだけに淡いお付き合いでした。とても元気で、一人で高いマストを倒し、低い橋の下を何か所もくぐって、銚子漁港まで出て行きました。銚子漁港からは大島までセイリングするのです。ある時は九州までヨットで行きました。時々、家内も短い会話を交わしていました。家内は山吹船長は人格が良い方だと言います。その彼が昨年のはじめ頃、ヨットの前で会いました。ニコニコ笑って言います。「白血球の難しい病気と仲よくなってしまいました。もうヨットには乗れません」。それが彼との会話の最後でした。愚かな私はそれが彼の別れの言葉とは気がつかないで、長い間お世話になったお礼も言わずいつものように別々に出港しました。

暮れに毎年のように年賀状を送りました。奥様の名前で主人が秋に亡くなったという知らせでした。我々との交流のことを彼は奥さんへ言っていたそうです。

確か60歳前でした。もう少しで定年なので暇が出来たら九州にもう一度行く予定だと話していました。霞が浦で水鳥が乱舞しているのを見るとつい山吹船長のことを思い出します。人は死ぬと他の動物に生まれ変わるそうです。昨日も山吹船長が白いカモメになって私のヨットのそばを舞ってくれたようです。山本船長は私の心の中に永遠に生きているのです。そして白いカモメを見るたびに思い出すのです。

057

今日も皆様のご健康と平和な一日をお祈り申し上げます。

                                藤山杜人