(写真は北京郊外の頤和園。出典はWikipedeaの頤和園の挿絵)
今考えても非常に不思議な事でした。1981年に初めて北京鋼鉄学院へ集中講義へ行った折の大歓迎ぶりです。全中国の鉄鋼会社へ電報を打ち、技術者を集めて私の講義を聴いてくれました。毎晩、豪華な歓迎宴をしてくれました。ある晩は人民大会堂で宴会をしてくれて、鉄鋼工業省の大臣まで出席してくれました。北海公園の仿膳飯店で宮廷料理の宴会もありました。頤和園や万里の長城や明の13陵へも案内してくれました。北京の裏町の小さな鴨料理店へも行きました。そこで、周栄章教授から日中間の戦争のことや共産革命の話を聞きました。彼は党員であり、国民党軍の居た天津市の武力占領へ参加し、共産党市政を担当したことがあったのです。
その後、個室寝台列車で瀋陽に移動して東北工学院で同じような歓迎を受けました。世話をしてくれた金応培教授に特に頼んでキリスト教の教会も訪問しました。文化大革命で荒廃した天主堂には椅子が無く、信者は皆冷たい石の床に膝ま付いてお祈りをしていました。ミサ後、金応培教授が私を日本人と紹介してくれました。熱い拍手が会堂に響きます。私は丁度その頃、日本に来たヨハネ・パウロ2世の話をしました。瀋陽の信者はその事を知っていて、強い関心を持って居ました。彼らはローマ法王の傘下になりたいのです。北京政府がそれを禁じています。「ローマが台湾と絶交するのが条件」として。
茫々あれから30年。金応培教授は引退し悠々自適ですが周栄章教授は既に亡くなりました。最近、よく当時のことを鮮明に思い出しています。そして何故あんなに大歓迎されたのか?その理由を歴史的に考えています。
1949年の共産党中国の独立。ソ連との蜜月の後に来たスターリンの死。そして中国とソ連の闘争開始。大躍進政策による飢饉と人民の苦難。続いて起きた1966年から1976年に至る文化大革命という内戦。知識人の農村への追放。1976年の毛沢東の死と4人組の逮捕。鄧小平時代の幕開け。丁度、その直後の1981年に初めて北京や瀋陽を私が訪問したのです。1956年ソ連との蜜月の終焉以来動乱と内戦の続いた中国の人々は過酷なそして残酷な生活をやっと生き延びて鄧小平の改革、開放政策に辿りついたのです。外国人の私が訪問することで「改革・開放政策」を実感出来たのです。苦しい生活が長かっただけに凄く嬉しかったのです。その嬉しさを歓迎行事で示しかったのです。
1981年当時の北京も瀋陽も戦争直後のように人心が荒廃していました。ここには書けないような酷い光景を見ました。文化大革命の極悪非道ぶりは日本人には想像が難しいと直感したものです。
その後30年。中国も経済成長し昨年度の車の販売数が1300万台位になり世界一になったそうです。しかし中国人は大躍進政策や文化大革命の時代の残酷な時代を決して忘れていません。そのことへの同情の念を持って中国人と付き合うことが非常に大切なことです。決してそれを話題には出さないことも重要な態度です。
外国人と付き合うときにはその国の歴史を良く理解してからにした方が良い。そんな確信を持っています。中国が教えてくれた教訓です。(終り)
今日も皆様のご健康と平和を心からお祈り申し上げます。藤山杜人