後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

1848年にアメリカはメキシコからカリフォルニアやテキサスを奪った

2010年01月18日 | うんちく・小ネタ

アメリカの国としての形が出来上がったのはメキシコとの戦争以後です。

ペリー提督が日本に来たのは1852年ですから西海岸にアメリカの海軍基地が出来た後だったのです。以下は、Wikipedeaのアメリカ・メキシコ戦争の項目の文章の一部です。

1847年1月13日に調印されたカフエンガ条約で、カリフォルニアでの戦いを終了した。1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約は戦争を終結させて、アメリカにカリフォルニア、ネバダユタと、アリゾナニューメキシコワイオミングコロラドの大半にテキサスと同様の管理権を与えた。アメリカはこれに対し18,250,000ドル(現金15,000,000ドルと債務放棄3,250,000ドル)を支払った。

このメキシコ割譲により、メキシコは国土の 1/3 を失った。不毛の砂漠地帯だったこれらの土地ではあったが、その一年後(1849年)カリフォルニア州サクラメントゴールドラッシュが起こり、さらにずいぶん後の20世紀前半には、テキサス州に無尽蔵といわれた油田が発見されて石油ブームが起こることになる。


英国やヨーロッパ各国で産業革命が起きている間、アメリカはまだインディアンと戦争をしていた

2010年01月18日 | 写真

Tecumseh021 1760年代から1830年代にかけてイギリスで起こった産業革命の間、アメリカはまだインディアンと戦争をしていて騒然としていたのです。領土もやっとオハイオ州を手中にし、その西のインディアナ州やイリノイ州ではテクセムと言う名のインディアンの酋長の率いる部族と30年にわたる戦争をしていたのです。以下はWikipedeaの「テクムセの戦争」の項目の説明文と挿絵のテクセムの肖像画です。

テクムセの戦争(-のせんそう、英:Tecumseh's War、またはTecumseh's Rebellion)は、アメリカ合衆国北西部領土で、アメリカ合衆国軍とショーニー族酋長テクムセに率いられたインディアンたちの部族同盟との間で戦われた戦争である。この戦争は1811年のティッペカヌーの戦いでアメリカ軍ウィリアム・ヘンリー・ハリソンの勝利で終わったと考えられがちであるが、米英戦争の時 (1812-1815)までテクムセの反抗は継続したので、米英戦争の一部とも見なされている。


オハイオ州の彼方此方に掲示してあるインディアン殺戮の歴史を書いた真鍮板

2010年01月18日 | うんちく・小ネタ

オハイオ州の北にエリー湖という広大な湖があります。1989年ごろ、州都コロンバスから湖岸のサンダスキーという町によく通いました。クルーザーヨットの講習会へ出て、船長資格を取るためでした。高速道路がないので、毎回、狭い田舎道を2時間ほど走ります。貧しそうな田舎町を幾つか通ると、所々に小さな駐車スペースとトイレの施設があります。

トイレ入れ口には真鍮製の板がおり、「1785年、この地域のインディアン40名をワーナー隊長率いる騎兵隊が殺した」と書いてます。また、別のトイレの真鍮板には、「1790年、スミス中尉指揮の騎兵隊がインディアン35名を殺した」と記してあります。コロンバスとサンダスキーの間の田舎道にはこういった真鍮板が5枚もありました。1990年頃にはインディアンは差別用語になってアメリカ原住民と呼んでいました。しかし道沿いの真鍮板には昔のままインディアンと書いてありました。

フルブライト留学生として初めてアメリカへ行った1960年頃は西部劇の全盛期でした。インデイアンが善良な白人家族を襲い、そのインディアン部族をアメリカ連邦軍の騎兵隊が皆殺しにするといったストーリーが多かったものでした。しかし、1989年には「インデイアン」は差別用語になっていて、「アメリカ原住民」と表現され、昔の西部劇は全く忘れらていました。現在のアメリカ人にとっては忘れたい歴史です。しかしこういう掲示板が残っているのは何故でしょうか?何方かその理由をご存知でしたなら、お教え下さい。(終り)


陸軍士官学校卒の神父さんの話ー川原謙三談「隠された神の御手に導かれて」ーその一

2010年01月18日 | インポート

はじめに:

神父様の多くは神学校を卒業して叙階して神父になり人々の信仰を導くものと思っていました。ところが陸軍士官学校を卒業された方もいるのです。川原謙三神父様です。昨年の11月29日にカトリック小金井教会へいらっしてお話をして下さいました。88歳にもかかわらず言語明瞭で精気が全身に漲っています。ご紹介記事はこのブログで「今日は夫婦解散、別々の教会へ行きました」と題して掲載しました。

今回入手した、カトリック小金井教会ニュース、「さくらまち」147号(1月17日号)の川原神父様の談話が掲載してありました。山本量太郎神父様の転載許可を頂きましたので、数回に分けて連載いたします。

=====川原謙三談「隠された神の御手に導かれて」=====

@未開の島での出会い

幼少のころ、私は宗教と無縁でしたg、中学生になると神棚の榊の水を替えたり、年末には注連縄を替えたりと、神道の儀式を父から受け継ぎました。また、祖母が毎朝となえるお経お、いつしか自然に覚えてしまいました。陸軍士官学校では靖国神社の分祠のような雄健神社(おたけびじんじゃ)の参拝もしていました。

戦争中派遣された、世界で最も未開の島といわれたブーゲンビルの住民がクリスチャン(後でカトリックであると分かる)で、見事な四部合唱でマリアさまの歌を歌うのにカイルチャーショックを受けました。私には、キリスト教はインテリのための宗教という思いがあったので、彼らの存在は深く意識の底に残っていました。

@職業軍人から靴磨きに

職業軍人として、中国から赤道の南にあるブーゲンビルへ派遣され、そこで敗戦を迎え、半年間の捕虜生活をへて帰国しました。半年間体の回復に努めた後、東京PX(駐留軍専用のデパート)のあった銀座の服部時計店と松屋で日雇いの仕事を得ました。

松屋ではアメリカ人の靴を磨き、チップも1ケ月分の給料ほどにもなり、映画も楽しめましたが、「何かが足りない」という強い思いにとらわれました。

このことを兄に相談すると、座禅をすすめてくれました。宗教が身近に感じられ、選択肢が禅宗と潜在意識にあったキリスト教になりました。

靴磨きの場所から、時計と貴金属店の現金収納係の若い女性が目に入り、気になる存在でしたが、ある日、彼女が食堂でお弁当を食べる前に十字を切ったのを見て、思い切って言葉をかけました。

(続く)


日本人という理由だけで大歓迎された思い出ー北京、瀋陽、1981年

2010年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真は北京郊外の頤和園。出典はWikipedeaの頤和園の挿絵)

今考えても非常に不思議な事でした。1981年に初めて北京鋼鉄学院へ集中講義へ行った折の大歓迎ぶりです。全中国の鉄鋼会社へ電報を打ち、技術者を集めて私の講義を聴いてくれました。毎晩、豪華な歓迎宴をしてくれました。ある晩は人民大会堂で宴会をしてくれて、鉄鋼工業省の大臣まで出席してくれました。北海公園の仿膳飯店で宮廷料理の宴会もありました。頤和園や万里の長城や明の13陵へも案内してくれました。北京の裏町の小さな鴨料理店へも行きました。そこで、周栄章教授から日中間の戦争のことや共産革命の話を聞きました。彼は党員であり、国民党軍の居た天津市の武力占領へ参加し、共産党市政を担当したことがあったのです。

その後、個室寝台列車で瀋陽に移動して東北工学院で同じような歓迎を受けました。世話をしてくれた金応培教授に特に頼んでキリスト教の教会も訪問しました。文化大革命で荒廃した天主堂には椅子が無く、信者は皆冷たい石の床に膝ま付いてお祈りをしていました。ミサ後、金応培教授が私を日本人と紹介してくれました。熱い拍手が会堂に響きます。私は丁度その頃、日本に来たヨハネ・パウロ2世の話をしました。瀋陽の信者はその事を知っていて、強い関心を持って居ました。彼らはローマ法王の傘下になりたいのです。北京政府がそれを禁じています。「ローマが台湾と絶交するのが条件」として。

茫々あれから30年。金応培教授は引退し悠々自適ですが周栄章教授は既に亡くなりました。最近、よく当時のことを鮮明に思い出しています。そして何故あんなに大歓迎されたのか?その理由を歴史的に考えています。

1949年の共産党中国の独立。ソ連との蜜月の後に来たスターリンの死。そして中国とソ連の闘争開始。大躍進政策による飢饉と人民の苦難。続いて起きた1966年から1976年に至る文化大革命という内戦。知識人の農村への追放。1976年の毛沢東の死と4人組の逮捕。鄧小平時代の幕開け。丁度、その直後の1981年に初めて北京や瀋陽を私が訪問したのです。1956年ソ連との蜜月の終焉以来動乱と内戦の続いた中国の人々は過酷なそして残酷な生活をやっと生き延びて鄧小平の改革、開放政策に辿りついたのです。外国人の私が訪問することで「改革・開放政策」を実感出来たのです。苦しい生活が長かっただけに凄く嬉しかったのです。その嬉しさを歓迎行事で示しかったのです。

1981年当時の北京も瀋陽も戦争直後のように人心が荒廃していました。ここには書けないような酷い光景を見ました。文化大革命の極悪非道ぶりは日本人には想像が難しいと直感したものです。

その後30年。中国も経済成長し昨年度の車の販売数が1300万台位になり世界一になったそうです。しかし中国人は大躍進政策や文化大革命の時代の残酷な時代を決して忘れていません。そのことへの同情の念を持って中国人と付き合うことが非常に大切なことです。決してそれを話題には出さないことも重要な態度です。

外国人と付き合うときにはその国の歴史を良く理解してからにした方が良い。そんな確信を持っています。中国が教えてくれた教訓です。(終り)

今日も皆様のご健康と平和を心からお祈り申し上げます。藤山杜人

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