後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

陸軍士官学校卒の神父さんの話ー川原謙三談「隠された神の御手に導かれて」ーその二

2010年01月19日 | うんちく・小ネタ

彼女は私を銀座三越の7階にあるカトリッククラブに案内してくれました。そこには非常に大柄な、ユーモアのあふれたチビサー(本当の名はティビサー)神父がおられ、彼から公教要理を学びました。

キリスト教の教えは、海綿が水を吸うようにすうっと頭に入ってきました。マリアの処女懐胎についての質問に対する答えは今でも覚えています。神父さまは神秘という言葉を使わず話されましたが、私もその神秘を感じることが出来ました。3ケ月半後に受洗し、その2ケ月後の堅信の秘跡の後、公教要理を教えるように神父さまから言われ、必死に勉強しました。

@27歳で神学校へ

27歳になった私は、神父さまからも兄からも結婚を勧められましたが、司祭の仕事に興味を持ち、神学校に行きたいと思ったのです。神学校は無試験でしたが、勉強、特にラテン語は大変でした。ロス司教さま(イエズス会)が「あなたたちが今勉強しないと、後で司牧する信者たちに大変迷惑をかけます、信徒の救いに関係します」と涙を流して諭されるので、神学生は全力投球で勉強しました。卒業の2年前、キリストの代理者になることが不安になり、28日間の霊操を受けたこともありました。

寡黙な私には、トラピストが向いているのではないかと卒業した年の夏、函館のトラピストを訪れました。結局、トラピストには入りませんでしたが、今でもトラピストは好きです。

@まだまだだなあと思います

他の人よりも遅くキリスト教の世界へ入り、亀のようにゆっくりゆっくりと石橋をたたきながら、少しずつ前進して信仰の道へと深入りしました。

神父になって50年たった今、神さまは幼少時から自分を導いてくださっていたことを感じます。子供の頃の教育、教育勅語、陸軍士官学校での訓練(戦争の仕方以外)が今でも役に立っています。子供のときからずっと神さまの御手に導かれていても気づかず、神さまからのインスピレーションもその時はわからず、後になってから気づく始末。モーゼは神の後ろ姿を見たが、私は後ろ姿もすぐには見えず、何年もたってしか分からないというのは、まだまだだなあと思います。

(2009年11月29日小金井教会での講話の概略です)

写真は函館トラピスト修道院です。出典は、http://www.bfh.jp/theme/theme_searchdetail.html/80000044 です。

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趣味の軽飛行機の写真をお送りします

2010年01月19日 | 写真

近くに東京都調布飛行場があります。滑走路が600m位しか無い小さな飛行場です。戦争中は首都防衛の戦闘機が居ました。B29には歯が立たず戦果はゼロでした。戦後は米軍が長い間使っていましたが、返還後は東京都が管理する軽飛行機用の飛行場です。大島、神津島、三宅島などの伊豆七島へ通う定期便が毎日発着しています。そのほかは趣味の軽飛行機を楽しむ人々が飛行機を駐機しています。風の弱い日は飛行機が安全なので多数の軽飛行機が離着陸します。今日は久しぶりに風が弱く、暖かい日なので随分と飛んでいました。下の2枚の写真には3機の軽飛行機が写っています。今日の風向きでは離陸地点は写真の左です。左を向いて地上を走っている2機がこれから飛び上がろうとしています。右向きに走っている1機は降りてきて、駐機場へ向かって走っています。以前、義兄が仲間数人と軽飛行機を持っていて、この飛行場に置いていました。1990年以前のバブル経済全盛の頃でした。その頃は駐機場があふれるように100機近くも居ました。最近はすっかり数が減り20機以下です。一度、義兄に乗せて貰い。関東平野を一回りしたことを思いだしながら写真を撮ってきました。

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下の写真は大島から帰ってきた定期航空便です。趣味で乗る軽飛行機よりは少し大きく20人以上の乗客が乗れます。

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冬枯れの都立野川公園の風景

2010年01月19日 | 写真

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近くにある都立野川公園を昨日散策してきました。この公園は戦後、進駐軍のゴルフ場として使われていた場所です。やがて国際大学が出来、そのあとも長い間ゴルフ場として使われていました。その後、東京都へ返還され公園になりました。

散歩していると公園には起伏があり、9ホールのゴルフコースを歩いているようで気持が良いものです。

冬枯れの公園を散歩している人々が多いのに驚きました。広々した風景をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。


日本人は外国で尊敬されています

2010年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム

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上のローテンブルグの写真の出典:http://yas.web.infoseek.co.jp/rotenburug/rotenburg.html )

大変雑な言い方をすると世界の国々は日本を尊敬している国と、尊敬していない国と、関心の無い国の3種類に分けられます。外国を旅行したり住んでみると何となく肌で感じるものです。尊敬している国々はインド、中国、韓国、フィリッピン、インドネシア、シンガポール、南米の国々などです。そうしてヨーロッパではドイツ、トルコ、ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、ノルウエイ、スウェーデン、フィンランド、リトワニヤなどのバルチック3国などです。歴史的な理由や日本の高度成長や日本車の品質の良さが理由になっています。しかし、時々日本の実情をよく分からないで誤解して尊敬して居る場合もあります。

ドイツで体験したことを少し書きます。ローテンブルグという中世の小さな町に3ケ月住んでいました。1969年の事です。昼間はドイツ語の学校に行き、夜はワインを飲むという気楽な生活です。とにかく凄い田舎で一歩城壁の外に出ると茫々たる畑や牧場が広がっていて淋しい所です。城壁の内側の町にはワインの居酒屋が5、6軒あるだけです。何処へ行っても奥のテーブルに常連の年寄りがワインを飲んで居ます。フラリと入って行くと、必ずじっと眺めています。東洋人がフラリと夜にワインを飲みに来るのが気にくわない様子です。私が日本人と知っていた主人が、常連席にちかづき小声で、「ヤパーナー(日本人)」と言います。とたんに彼らの目が輝き、こちらを見ます。嫌悪がすこし混じった尊敬の目です。嫌悪は、忘れたいドイツの第二次大戦の悪夢を思い出すからです。尊敬はドイツの降伏後も日独伊三国同盟に忠実に、最後まで戦った日本を尊敬しているのです。しかし彼らは絶対に打ちとけません。店の中では私に道を開け、尊敬の態度を示しますが、一緒に飲もうとは言いません。中世の町とはそういうものです。そのうち5、6軒の居酒屋では私が日本人として慇懃に遇せられるようになりました。主人がすぐ飛んで来て注文を聞いてくれます。常連席の隣の上席にすかさず案内してくれます。

翌年の1970年にはドイツ政府の招待で小型バスで2週間、全国の観光旅行へ連れて行ってくれました。ドイツ人の運転手と政府から派遣された添乗者のドイツ人以外はブルガリア人、ルーマニア人、トルコ人、日本人の学者です。全て第二次大戦でドイツ側についた国々から来ている学者なのです。西ドイツの荘厳な教会や修道院、そして各地の美術館を巡る旅です。中世以来のドイツ文化を見せてくれます。

その旅が終わって1ケ月ほど過ぎて緑豊かな季節になりました。その頃、ドイツ政府のフンボルト留学制度でドイツに来ている外国人を大統領邸へ招待してくれました。今度は家族全員です。全員で100名以上のように見えました。

当時の首都はボンにあり大統領邸は豊かに流れるライン河のほとりにありました。ゆったりした白い建物の中庭が広い芝生になっていてライン河に向かってすこし下っています。芝生と河の境には白樺の木が一列に並んでいます。その大きな建物での食事中に天井が二つに割れて真っ青な空が広がり、子供たちが歓声を上げました。白髪の大統領が短い歓迎のあいさつをしただけです。出席者は第二次大戦のときドイツ側についいた国々から来ている研究者でした。

日本に帰国後もドイツ大使館でのパーティに家族とともに何度も招待されました。

以上の体験は私に色々なことを考えさせています。「日本は昔の協力者へ恩返しをしているのだろうか?」。「いつまでも戦争時代のことにこだわるドイツ人の執念深さは善なのであろうか?」。「ユダヤ人を400万人も殺したドイツと同盟して戦った日本人の責任はどう取るべきであろうか?」。「日本はアメリカ一辺倒でドイツを忘れて良いのだろうか?」。などなど老人になった現在でも心が迷います。

皆さんはドイツという国や人々のことをどの様に思っていらしゃるのでしょうか?(終り)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

(下のライン河の写真の出典:http://www.d1.dion.ne.jp/~kawaiys/sub34.htm )

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