後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

キリスト教の宗派間の争いはありません

2010年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は小金井市にある10の宗派の違う教会が一緒に集まり、お祈りをする会がありました。午後2時30分から1時間、カトリック小金井教会で山本量太郎神父様の司式で行われました。21世紀はキリスト教の分裂ではなく、協力と統一の世紀にすべきという山本神父様の力強い説教がありました。ヨハネ・パウロ2世が目指した緒宗派の統一運動です。小金井市にはプロテスタント系など、10以上の教会がありますが、その中の10教会の牧師様と信者が一堂に集まったのです。このような事は小金井の歴史上で初めてのことです。

このブログでは佛教やキリスト教のことをいろいろな角度から書いてきました。そこで今日も宗派の違う教会の牧師様や信者が集まったらどういうふうになるか興味がありました。もっとありていに言えば興味本位の取材のつもりで出かけました。

ところが、そんなことを忘れるほど感動してしまいました。集まった人々が一緒に讃美歌を歌うときの嬉しそうな声が会堂に響きます。兎に角、身が踊るほど楽しかったのです。

楽しかった理由を、雑な喩え話で説明します。田舎の実家へ何年ぶりかで帰ります。夜に幼馴染や親しかった親類の人々が集まってきます。自然にお酒を飲み始めます。昔話を賑やかにします。昔よく唄った歌や民謡を一緒に歌います。毎日働いている都会での悲しみや苦労がスッかり忘れてしまいます。昔の楽しい日々に還るのです。

宗派の違うキリスト信者と一緒にお祈りをするとこのような昔から親しかった人々と一緒に宴を囲むような楽しさが身を包むのです。都会で働くときの何とない肩身の狭さが無くなるのです。そうです。キリスト教信者は昔からの馴染みだったのです。昔から親しかった幼馴染だったのです。不覚にも思わず涙がこぼれそうになりました。

以前からキリスト教が日本人の根着いているか?という問題を論じた記事を何度か掲載しました。今日の緒宗派合同での礼拝会で私は日本人の心に深く根着いていると実感しました。それは理論や理屈では証明できない感情の問題でもあったのです。

下に合同祈祷会の様子と、それに続いて1時間ほど行われた懇親会の様子です。

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この記事を読む人は愛されます

2010年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

この記事を読む人をイエス様は愛して下さいます。パウロという使徒がコリント教会の信者へ送った手紙の一部の文章です。

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愛は忍耐強い。

愛は情け深い。

ねたまない。

愛は自慢せず、高ぶらない。

礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

愛は決して滅びない。・・・・・・・中略・・・・・・

信仰と、希望と、愛、この三つは、何時までも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

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以上の文章はキリスト教が「愛」の宗教だということを明快に示しています。

パウロは以前はサウロという名前の男で、キリスト教弾圧に活躍していたのです。それがイエスの教え、愛の教えに心奪われ、キリスト教徒になってしまった人です。深い知性と卓越した行動力の持ち主だったのでキリストの教えを広める活動で大きな活躍をしました。そのために新約聖書には彼の手紙が多く紹介されています。簡潔で、分かり易い、そして力強い文章です。この短い記事を読んで下さった人へイエス様の慈しみがあるようにお祈り申し上げます。(終り)


最近の若者は、、、

2010年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

私は日本の若者を偉いと思う。誇りにさえ思っている。と書くと若者に媚びを売ると非難する人々が多い。しかし本当にそう感じています。

どういう所が偉いと思うか?一言で言えば、最近の若者は人を差別しないのです。

学歴や貧富の差や年齢に関係なく、人間を人間として話をし、親切にしてくれます。

いきなり話が飛びますが、48年も前の1962年に初めてアメリカへ留学したときの驚きを思い出します。アメリカの物質的な豊かさに吃驚しました。実はそれだけでは無かったのです。初めて打ち明けることですが彼等の道徳的な態度に感激したのです。人を見かけによって差別しないのです。アジアから行った栄養の悪い貧しげな私を一個の人間として丁重に扱ってくれたのです。

その頃の日本は身分社会が厳しくて、縦社会が徹底していたのです。縦社会は人間の個性を否定します。個人の独創性を嫌います。社会的な身分をまず確かめます。そしてその身分にしたがった取り扱いをするのです。

その48年前の体験以来、日本の人々が何時アメリカのように個人を差別なく大切にする社会になるのか?と悲観的に、そして冷笑的にさへ見下していたものです。

所が4年前に仕事を止め、インターネットを通うしていろいろな若者と交流してきました。損得に関係しない平等なお付き合いです。そして大発見をしたのです。日本の若者は既に何十年も前から個性を大切に生きていたのです。縦社会の悪い洗礼を受けないで独自の人生観を切り開いて生きているのです。そして世界中へ行って活躍しています。アメリカ、ドイツ、フランス、イギリスだけでなくインド、タイ、ネパール、インドネシア、韓国、中国、中近東諸国、アフリカ諸国、南米諸国で日本の若者が誠実に活躍しています。日本の政府や大会社が派遣したのではない人々です。自分の信念で滞在し、働いているのです。そいう人々も偉いと思います。誇りに思います。

私が最近の日本の若者を偉いと思う理由が御分かり頂けたと思います。

しかし自分の恥もつでに書いて置きます。1962年にアメリカで私が差別されなかったので、「アメリカ人は人間を差別しない」と長い間信じていました。しかしキング牧師の黒人差別へ関する演説をテレビで見てから気が付きました。1962年に留学した私の目には黒人が見えなかったのです。当時のアメリカはそのような社会だったのです。オバマさんが大統領になったとき私は何故か深い安堵感にとらわれました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人