後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

船は装備によって雲泥の差・・・戦艦、三笠と帆船日本丸と氷川丸

2010年05月07日 | うんちく・小ネタ

1900年英国、ビッカース造船所製の三笠と、1930年英国、ラメージ&ファーガソン社製の帆船日本丸と同じく1930年三菱造船、横浜ドック製の氷川丸の構造と装備を比較すると欧米の船建造の思想が実に明快に理解できる。

欧米では船、特に大型船を建造する場合にその船の使用目的をまず明確に決定する。その後で使用目的を達成する一番合理的な構造と装備を考えて建造する。

欧米の設計思想の根幹にはこの合目的性が一番重要になる。三笠の目的は敵艦より優れた大砲を多数装備し、高速で海上を自由に動けなければならない。その断面構造図には戦闘目的に関係しない装備は一切無い。士官室は後部、水兵室は前甲板の下と画然と分離され規律保持が徹底している。砲弾庫は船底の一番安全なところにあり、大量の食料は長期作戦のために冷凍庫に保存されている。

撃沈した敵の戦艦の乗員を救助し、捕虜にする予定で「捕虜収容室」も装備してある。

動力は蒸気機関で直立3気筒レスプロ蒸気機関で2基で合計15000馬力、2軸スクリューで15140トンの船体を18ノットで推進させる力を備えていた。燃料は石炭で、甲板の左右に多くのマンホール状の穴を作り船底に石炭を人力で落とし込む。出動の前には1500トンの石炭を積んだ。積み込むときは乗組員総員で迅速に積み込む訓練を重ねたという。

三笠の建造後30年たって1930年に日本丸と氷川丸が出来た。

日本丸は三笠と同じ英国製の排水量2279トンで池貝鉄工所製ジーゼルエンジン600馬力2基を装備している。この船の使用目的は帆走訓練生の大洋航海術の教育である。したがって大洋航行用の4本マストで、おもに横型帆と少しの縦型帆の合計、29枚の全てを人力で操作するように出来ている。甲板から上の全ての装置は、舵も含めて電気モーターや油圧動力は一切使わない。小さなジーゼル発電機は艇内の灯火と航海灯と無線電信機のみへ供給された。航海の90%は帆走し、ジーゼル燃料を節約した。

この船には武器は一切積んでいない。食料と清水だけを乗員数と航海日数に従って積載していた。この船の断面構造図を見ると平和的な構造になっている。それに比較して戦艦「三笠」が戦争目的の殺伐とした構造になっていることが歴然とする。平和な現在の日本人として見ると、三笠は非常に残酷な構造になっているように感じる。捕虜収容室など本気で作ってあるのは敵艦を沈めて、生存者を拾い上げようとしている。

さらに1930年製で排水量11622トンの氷川丸は客船であり、客室とダイニングルーム、社交室などが主な部分を占めている。5500馬力の大型ジーゼルエンジンを2基装備して太平洋を時速18.2ノットで駆け抜けた。ただ当時の社会風習に従って一等客室と三等客室の差が大きい。1等は個室で三等は上下2段ベットの狭い8人部屋で船底近くにある。食堂も貧弱である。三等船客は一等客室部分へは立ち入り禁止である。三等船客にとって、航海中は暗い毎日であったに違いない。最近の豪華客船のニッポン丸や飛鳥の船内とは雲泥の違いである。

三笠と帆船日本丸と氷川丸の構造・装備の違いを簡単に比較して欧米の船の建造の思想を考えてみた。そしてそれを敷衍すれば飛行機や自動車の設計思想にも同じようなことが見られる。皆様のご叱正をお待ちしています。(終わり)


ネット社会から自分が突然消える時、

2010年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログを始めたのが2007年11月5日で、それ以来、色々なSNSに入会し、そこでも会員の方々と毎日のように交流しています。加入しているSNSは趣味人倶楽部、BYOOL、にほんブログ人村、みんなの足跡などです。毎日、日記や写真を見て、コメントを書いたりしています。ですから私はネット社会にドップリと浸かった日常生活をしています。

しかしここ数日、コンピューターの調子が悪くて、正常に動いたり、動かなかったりしています。そのせいで深く考えるようになりました。ネット社会は本当に自分にとって重要なのだろうか?あってもなくても差しさわりのないものだろうか?

結論は出ません。しかしコンピューターが完全に壊れてしまう前に書くべき事だけは書いて置こうと思っています。それはネット社会の上で交流し、私を励まして下さった方々へ感謝していることを書いて置きたいのです。ネット社会のお陰で人間の勇気と善意が確信できました。それは実社会以上の意味があります。ネット社会では人々は利害関係が一切ありません。それなのに友情を送ってくれます。激励してくれます。明るい気持ちにさせてくれます。本当に有難う御座いました。

これからこのコンピューターを直しにかかります。一度、ここでキリをつけて置こうと思い一筆書きました。下の写真は富士山の5合目で昨年撮った写真です。自分で気に入っている写真なので挿絵代わりに掲載させて頂きました。

本当に有難う御座いました。敬具、藤山杜人

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英国製の軍艦の性能の良さがバルチックj艦隊を壊滅させたのです

2010年05月07日 | うんちく・小ネタ

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東郷元帥の戦略も独創的で敵の意表をつく見事なものであった。でも、英国のビッカース造船所へこの戦艦を発注した海軍省の官僚も偉かった。砲身の直径30cmの主砲を前後に2門ずつ、両舷側に15cm副砲を7門ずつ、そして8cm砲を両舷側に10門ずつ、合計38門の大砲を持つ三笠の戦闘能力を忘れてはいけない。

大砲の戦闘能力は一分間に何発の砲弾を発射出来るか?砲身の方向を変える速度は大きいか?射程距離と命中精度が敵艦より優れているか?などによって決まる。

ビッカース造船所の戦艦製造技術と艦載大砲の優秀性がロシアのバルチック艦隊より優れていたら勝つのが自然という研究があっても良い。

当時の帝国海軍は東郷元帥の戦略的能力と決断力を高く評価しつつも、戦艦の戦闘能力を冷静に国際的に比較検討したに違いない。

ロシア艦隊に完全勝利しすぎた結果、大艦巨砲主義がその後の帝国海軍の主流となった。しかしその過ちが明白になったのは、巨大戦艦、武蔵や大和を建造し、アメリカの航空攻撃に沈められた後である。そんな歴史を思い返しながら三笠の甲板を歩いてきた。風の爽やかな晴天で、猿島の緑が美しい。

撮影日時:2008年5月27日午前11時頃、 撮影場所:横須賀市三笠記念公園