後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

Dead Slow という字を見てゴッホの絵を連想する

2010年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

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油絵を見て感動する人も多い。シスレーやピサロの静かな風景画は好きだが、ゴッホの絵はどうも、と感ずる人もいる。でも、小生は上のような「星月夜」を見るたびに感動する。シカゴの美術館で見たときは、思わず涙が頬をつたわった。何故感動するのか言葉では説明出来ない。1890年自殺する前に描いた「アルルのゴッホの寝室」や歪んだ教会の絵などなど、どの一枚も感動を覚える。理由は全く分からない。

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人の連想は不思議だ。先日、氷川丸の5500馬力2基のエンジンルームでこの2枚の写真のような機械を見た時深く感動した。そしてゴッホの絵を見た時の感動を連想した。それだけの話である。これから先は大型船の離岸、着岸に興味のある方にはご理解頂けると思う。興味が無ければ実につまらない話である。

左の円形の機械は「エンジン・テレグラム」というもので、全く同じものが船の最上階にある操舵室にもある。出港しようと舵輪を握った船長がエンジンとスクリュウの回転速度を機関士へ伝達する機械装置である。Aheadは前進、Asternは後進で、Stand by、Dead Slow、 Slow、Half、Full とはエンジンの回転数を、中立、微速、ゆっくり、半分の速度、あるいはフル回転にするという指示板である。それらの指示を船長が出し、機関士へ伝達する機械である。機関士はその指示に従って即刻エンジンへ供給する燃料の量を右の写真のようなレバーで調節する。この機械装置はエンジンコントロールが完全電子化されていない時代に全世界の大型船で100年以上にわたって使用されていた。

操舵室のあるブリッジと機関室は遠く離れている。おまけに機関室は巨大なエンジンが唸っていて、声による指示は不可能である。

離岸や着岸しようとする大型船を岸壁と衝突させてはいけない。岸壁を擦って船腹を傷つけてもいけない。全ては船長の責任である。

スクリュウの回転速度を瞬間的に変えたい。また慎重に動かすために「死ぬほどユックリ」回転させたい。そんな船長の悲鳴にも似た指示がDead Slow である。これほど感情のこもった英語を見たことがない。日本語に約して「微速」と書くとなにか間違いのような気がする。

欧米人の知恵の結晶のような機械装置である。舵輪を握った船長と轟音うずまくエンジンルームでアクセル・レバーを握った機関士との瞬時の連係動作が要求される。

ゴッホの絵は彼の狂おしいほどの感情や情念を伝えている。Dead Slow は船長の感情を伝えてくる。緊張した、場合によっては狂おしいほどの船長の叫びだ。巨大な船が岸壁にぶつかる一瞬前にエンジンの回転数を変えなければいけない。

関係ないものだがDead Slow の英語を見て、ゴッホの絵を連想した理由かも知れない。人間の連想には明快な脈略が無いというが、その一例かも知れない。

つまらない話の終わりです。


無縁墓の急増と1319年に生きていた大蔵近之さん

2010年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の経済の高度成長期は1964年のオリンピックや1970年の大阪万博の頃から始まったとよく言われています。そしてその頃から墓地販売も盛んになり一大産業になって来ました。都会の近郊に広大な墓地を開発し墓石とともに売るのです。高額にもかかわらず飛ぶように売れました。その延長で現在でも墓の販売は盛んです。もっとも値段のほうはかなり安くなってきましたが。

その結果全国のお寺にある先祖代々のお墓の世話をする子孫が消えて居なくなってしまったのです。「00家先祖代々之墓」の子孫は遠方に住んでいて、そちらに生前から墓を作っているのです。そしてお寺さんとは縁が切れてしまうのです。先祖代々のお墓の供養の為に子孫がお寺へ支払う御礼が急に少なくなって来たのです。その結果、多くのお寺さんが困窮しているのです。

人々は何故お墓を作るのでしょうか?死んだ後に静かに眠る場所が欲しいのです。死んだあとでも自分が忘れられないようにしたいのです。年月がたっても朽ち無い記念碑が欲しいのです。そして家族が時々来てくれて、また会える場所が欲しいのです。

それを合理的に考えればお寺の裏の墓地である必要はないのです。

そんな事を考えながら府中の高倉塚古墳の近所をブラブラしていたら1319年に建てられた石碑がありました。鎌倉時代から室町時代の300年間に盛んに建てられた秩父産の黒い石板の卒塔婆です。死んだ人の供養を祈る板碑です。府中市内だけでも300枚も見つかっているそうです。お寺にも建てましたが下のように当時の重要な街道へ面して建てられたものも多かったようです。この写真の板碑は大蔵近之という人が父の大蔵道仏の17回忌の供養の為に建てたと書いてあるそうです。街道を通る人々がこの石碑を見て手を合わせ供養をし、旅の安全を祈ったのです。

そうですね。これは一種のお墓です。大蔵近之さんと父の道仏さんが眠る墓です。そして道行く人々といつも賑やかに話が出来る場所なのです。次第に縁が切れる子孫に拘泥しないでさっぱりしています。昔もスマートな日本人が居たものと感心しましたので皆様へもご紹介いたします。(終り)

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あなたは何時、日本が先進国になったとお考えでしょうか?

2010年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

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先進国とはどういう国でしょうか?いろいろな決め方がありますが、私は都会と田舎の生活レベルが同じ国を先進国と考えたいと思います。日本では終戦後もずうっと後まで、都会と田舎の生活レベルの差が非常に大きかったのです。現在の日本人はもうその事を忘れてしまっています。

この記事の下の方に江戸時代中期に造られた農家をご紹介しました。「しみじみと しみじみと 懐かしい農家のたたずまい」と題する記事です。このような農家は驚くなかれ昭和40年(1965年)頃まで全国の農村で実際に使用されていたのです。流石に家の廊下や窓にはガラス戸がはめ込まれ各部屋には電灯が付いていましたが、暖房は囲炉裏と石油ストーブで、水道は山水を引いて使っていました。

何故、昭和40年頃と推定できるのでしょうか?川崎市立日本古民家園には数十軒の農家や漁師の家が全国から移築されています。その移築の時期が昭和40年、41年、42年、43年なのです。古い農家を新しく建て替えたので、不要になった古い家々を寄付したのです。

ところが東京の田園調布の住宅街では、大正時代の末には既に、上の写真に示すような西洋館に大川さんという鉄道技師一家が女中とともに住んでいたのです。この家は大正14年に造られたのです。台所には電熱器と電気オーブンがついていて、居間にはピアノがあります。

第一次世界大戦で日本が戦勝国になり、武力の上では一等国の仲間入りをしました。しかし都会と田舎の生活レベルには雲泥の差がありました。農村の人々は都会の生活に憧れを持っていたのです。この状態は戦後も同じで、その差が縮じまり出したのは昭和40年(1965年)頃からです。それから10年から15年かかってやっと生活レベルが同じようになったのです。

従って、日本が先進国になったのは1980年前後ということになります。

こういう事実を敢えて書いているのは日本の近代化の歴史をいろいろな視点から考えなおすことが重要であると思うからです。我が国のGDPが大きいから幸福な人生を送れるとは限らないからです。経済的な繁栄の統計的な比較ではなく、富がどのように分配されているか?生活レベルは外国と比較して遜色無いのか?生活の利便性は良いのか?などなどを多角的に考え直す必要があるのではないでしょうか。

このような多様な視点でその国の現状を考えるといろいろ興味深いことが分かります。

中国政府は自ら、「中国はまだまだ発展途上国です」と言っています。田舎と都会の生活の格差がまだまだ大きいのです。海岸部と内陸部の経済格差が大き過ぎるのです。ですから中国政府の主張は正しいと私は思っています。

実は1969年から1970年にかけてドイツに住んでいた時に驚くような体験をしたのです。ドイツではどんな田舎に行っても家々が立派で生活レベルが都会と同じだったのです。ヨーロッパの豊かさに圧倒されたのです。その時の驚きを時々思い出しています。そして日本はまだまだ貧しい国だと思っています。

皆様は日本を豊かな国で、人々は幸福な人生を送っているとお思いでしょうか?時々冷静に考えて見ることが重要ではないでしょうか?日本の将来はどうすれば良い国になるのでしょうか?政治家にビジョンが無いばかりでなく、我々皆も明確なビジョンを持っていません。それは不幸なことではないしょうか?皆さんのコメンントを頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人