後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

部 恒美さんの鉛筆画展をご案内いたします

2010年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログでも以前ご紹介しました鉛筆画の傑作を集めた展覧会が下記のように開催されます。宜しくお願い申し上げます。

=====安部 恒美氏の鉛筆画展======

安部 恒美さんからのご挨拶です。

鉛筆画の個展を開催いたします。
皆様にも、ぜひ原画をご高覧頂ければ嬉しいかぎりです。よろしくお願い申し上げます。

日 時 6月13日(日)~26日(土)
場 所 画廊喫茶 ケニア
    地下鉄日比谷線 日比谷駅  A9出口地下通路すぐ
    千代田区有楽町1-5-1 日比谷マリンビル B2F
    平 日  AM10:00 ~PM 8:00
    土・日  AM11:00 ~PM 6:00
    最終日 PM 3:00まで

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ついにデジカメ壊れ、急遽セイリングを止め買いに行く

2010年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

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今朝は久しぶりの快晴です。早速、一週間ぶりにヨットへ行く。セイルを出して快調にはしりだしました。2、3枚写真を撮ったところで遂にカメラのレンズが出てこなくなりました。4月18日に三春の滝桜の写真を撮ろうとして家内が雪の残る土手に駆け上り、3分咲きの大樹を上方から写し、駆け下りる時見事な大尻もちをついて泥水の中へカメラを押しこんでしまったのです。乾燥してレンズの駆動部分へ入りこんだ土の粉末を少しずつ取りだしながら、手でレンズを動かして使ってきました。それがヨットの上でレンズがどうしても出てこなくなってしまいました。週末に家内と旅に行く予定があったので急遽セイリングを止めて帰って来ました。近所で「劇的にキレイに写る」というキャノンの小型デジカメを買って来ました。下の写真は庭で試験的に撮った写真です。なるほど少しキレイです。

前のニコン・クールピックスは2007年の11月から2年半の間よく働いてくれました。感謝しつつ、修理しようかと迷っています。皆様のデジカメは壊れませんか?詰らない話で御免なさい。

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横浜の「みなとみらい」に係留、公開している帆船日本丸のご紹介

2010年05月13日 | うんちく・小ネタ

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クルーザーで波風の少し荒いときに、風や波が帆や船体の何処にどの様に当たっているか実際に目に見えるような錯覚に捉われる。

いきなり唐突に連想が飛躍する、「大型タンカーやコンテナ船、そして豪華客船の船長は帆船操作の経験をして居るのだろうか?」「していれば荒天のとき落ち着いて操船出来るに違いない!」「待てよ、横浜の日本丸は昔、商船学校の練習船だったそうだ」、「そうだ、そこを訪ねて関係者に聞いてみよう!」、早速、車を駆って首都高速を駆け抜け、横浜、みなとみらいの日本丸の係留してある岸壁に着く。

乗船切符を買う窓口で賢そうな女性に上の主旨を言う。「それなら今日は、ボースン(水夫長)も船長もいるから紹介しますね」

ペンキ塗りをしていたボースンが快く仕事を止めて4本のマストとなどへ上げる合計29枚の帆の上げ方の概略を説明してくれた。そして大西船長へ引き継ぐ。

何故この船を、筆者は、「まだ現役大型帆船」と称するか?

筆者は今日まで、古い帆船の博物館と思っていた。しかし大西船長によると船舶検査にも合格し、いつでも東京湾へ出航できる状態で係留されているそうだ。上の写真をご覧頂きたい。潮の干満の影響が多少あるドック内に鉄の鎖でゆったり係留してある。29枚の帆の上げ下ろしは毎月1回以上行われている。東京湾へ出るのは何年かに一度ではあるが。29枚のセールは強風用と弱風用に分けて3セットずつ整備保管してある。

昔この練習船で船長や航海士をしていたOBと派遣された現役の船員や学生が共同で保守管理しながら、一般の人々の帆走訓練を実施している。

今日、説明してくれた大西船長もかつてこの日本丸の一等航海士をし、その後は、同じような練習用大型帆船の船長をしていたという。

大西船長へ聞く「タンカーなどのような大型船の船長は帆船の経験はあるのですか?」「日本人の船長なら全員この船か、同じような大型帆船で訓練を受けています。帆船によって船や海のことを学ぶのです。先生はこの帆船自身です。我々は船が無言で教えていることを時々練習生に説明します。大部分は練習生が直感的に理解します」

明快な回答である。そして意味の深い、興味深い話を長時間、情熱的にしてくれた。

今後、数回にわたり大西船長の話と杉浦昭典著、海洋文庫19「帆船」(舵社1986年発行)の内容をまじえながら数回のシリーズ記事「まだ現役大型帆船日本丸」を掲載することにした。なお杉浦昭典氏は神戸商船大学で大西船長の指導をしてくれた恩師とのことである。

最後に今日いきなり訪問した筆者へ長時間、貴重なお話をしてくれた大西典一船長(財団法人帆船日本丸記念財団、常務理事)へ深甚な感謝の意を表します。

この記事は2年前の2008年4月26日掲載記事の再録です。続編は2008年4月、5月に亘って掲載してあります。是非、帆船日本丸をご訪問なさることをお勧めいたします。

撮影日時:2008年4月25日午後2時、撮影場所:横浜市西区みなとみらい2-1-1岸壁にて


日本人が徒手空拳、イギリスでベンチャー企業を成功させた痛快な話

2010年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

023 1990年頃始まった日本の不況は10年以上続いた。経済産業省はベンチャー起業を盛んにして経済の活性化を推進しようとした。個人的な話で恐縮ですが、小生もその事業を数年手伝ったことがあり、ベンチャ-企業には特別な思い入れがあります。

ところが最近、趣味人倶楽部の英香さんの日記を読んでいたら彼女のご主人がはるか以前にロンドンでベンチャー起業をし、大成功したことが書いてあります。経済産業省がベンチャー起業推進のいろいろな政策を実施するはるかに以前の事です。起業し、夫婦で努力して大成功したのです。日本人の痛快な成功物語です。もっともご夫婦はイギリスに帰化し、すでに日本人ではないかも知れませんが。でももともとは日本人だったのです。英香さんの日記には、妻の立場から努力したベンチャー起業の経緯が書いてあります。転載許可を貰いましたので以下に示します。それにしても多くの日本人の世界的な活躍には驚異の念を禁じ得ません。

=======英香さんの日記、「夢を追う」=========

そもそも私が、英国にこれ程長く暮らす事になったのは、当時商社マンであった夫の海外転勤がそのきっかけであった。
日本経済が飛ぶ鳥を落とす勢いの時代であったから、ヨーロッパの特殊な素材を担当していた夫の転勤は、当然の成り行きであった。
その英国転勤に同伴する事が条件で結婚を承諾した私は、天職と思っていた仕事を辞め、夫に伴って四年間の英国生活を体験する事になった。
夫の会社の規定は、先ず本人が一人で赴任し、ビジネスの見通しが付くと同時に、本人の海外での適応能力に問題なしと判断されて初めて、六ヶ月後に家族の渡航許可が下りた。
六ヶ月遅れで渡英した私を待ち受けていたのは、入れ替わるように長期出張に出かけて行ってしまった、夫不在の空っぽの新居の部屋であった。
新婚早々、初めての外国暮らしで一人放り出された心細さはあったが、見る物・聴く物・食べる物、何をとっても初めての体験は、結構刺激的で、むしろ積極的に生活を楽しんだ。
当時駐在員家庭では、家のお掃除などをしてくれるハウス・キーパーを雇うのは一般的であったので、妻達は有り余る昼間の時間を、英会話やテニス・ゴルフそしてアダルト・スクール等の習い事等に費やした。
休日ともなれば、自宅で夫の仕事関係者の接待に、レストラン並の品数の手料理を振舞わなければならなかったが、その合間を縫って、英国やヨーロッパ各地の旅行を楽しんだ。
こうして瞬く間に三年が過ぎ、任期の四年目に入ったばかりのある晩、夫が少し改まった顔付きで話を切り出した。
「実はこの四年の任期が終ったら、会社を辞めようと思う・・・」
当時日本企業の駐在員は、同一企業に四年間在籍勤務した実績があれば、晴れて英国の永住権が取得出来た。
その永住権が取れた時点で、長年自分が扱ってきた素材を製品化し、販売する事業を思いついた夫は、会社を辞め、この英国の地に留まって起業しようというのである。
既に取引先企業への根回しも済ませてあり、準備万端整っているかのように見えたが、会社を興すといっても、それまでサラリーマンだった夫に最初から社員を雇う余裕などなかった。
「この夢を実現するには、最初は君の協力が不可欠なんだ。だからもし、君が嫌と言えば諦める。」
青天の霹靂とはこの事で、私の頭の中は真っ白・・・その夜は思考が停止したまま眠りに付いた。
夫は確かに商才に長けた人であった。
彼の部署は順調に業績を上げ、彼の貢献を会社も高く評価してくれていたし、このまま無事に四年の海外勤務を終えれば、東京本社ではそれなりのポストが待ち構えていた。
何より、父が事業をしていて、その母の背中を見ながら育った私は、この三年間の結婚生活で、商社マンの妻の座をかなり心地良いと感じ始めていた矢先でもあった。
しかし、冷静な目で見てみると、夫は組織の中で生きて行く人間ではなかった。
今回独立しなかったとしても、将来組織を離れる可能性は十分に考えられた。
人生のチャンスと思える時は、そう何度も訪れるとは限らない。
私のモットーは「五分五分で迷ったら、先ず行動する道を選ぶ!」ではなかったか。
数日後私は夫に告げた。新妻らしく「あなたが望むなら・・・私は何処へでも」
等と殊勝な事は一切言わなかった。
最悪の結果を考えれば無理かもしれないと思いつつも「今の生活レベルを落さない位の覚悟があるのならば・・・」
が、夫は目を輝かせて即座に答えた「絶対!・・・努力する・・・」
その日から一年・・・十月十日病院のベッドの上で絶対安静という難産ではあったものの、待望の娘の誕生という喜ぶべき経験を経て、永住権が確実になった。
その夜、新たな門出を祝って、二人だけのささやかな祝盃をあげた。
突然の夫の「退職願」に、東京本社から常務が飛んで来て説得するという一幕もあったが・・・夫の決意は変わらず・・・その時から、私はそれまでの優雅な商社マンの妻ではなく、夫と共に戦場で戦う企業戦士に変身した。
自宅の一部屋がオフィスになり、私はそのオフィスに待機しながら、商品化する為の(それまでは趣味の域でしかなかった絵心を生かし・・・)デザイン画を描いては商品サンプルを発注するという仕事に明け暮れ、夫は夫で今まで以上にヨーロッパ中を飛び回る生活が始まった。
家事は元々ハウス・キーパーがいたが、やっと授かったばかりの娘には毎朝泣かれ、後ろ髪を引かれながらもベビーシッターに託し、食事さえもクックの世話になった。
こうして始まった、私達のアメリカン・ドリームならぬイングリッシュ・ドリームは、時代の追い風に乗って・・・次なるビジネス(現在の会社)へと移行していくのだが・・・
残り時間を数える事が多くなってきた昨今、夢に向かって夢中になってつき進んで行った若かりし頃の思い出が、妙に懐かしく思い出された。(終り)