後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

巨大な 石造古墳が近所に!

2010年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、学校で大和にある大きな前方後円の古墳のことを習いました。それで古墳は大和地方にしか無いと思い込んでいました。中年になって埼玉県の「さきたま古墳群」の雄大な古墳群を見て度肝を抜かれました。

ところが数日前に隣町の府中市を車で通っていたとき道端に巨大な石造古墳を発見しました。今日はカメラを持って行って、写真を撮ってきました。上部が円形で、その下が四角形の石造りです。丸石は多摩川の河原から拾ってきたものばかりです。西暦650年頃に作られ、それを学問的に発掘をし、もともとの形に組み上げたものです。

上の円形の部分の直径が16m、そのしたの四角形の一辺が23mでその下に更に一辺が32mの四角形の台ができています。3層構造です。この形の古墳は古墳時代の終わりごろ盛んに造られたそうです。現存する上円下方古墳の中では最大の大きさです。

国指定の史跡になっています。「武蔵府中熊野神社古墳」という名前です。場所は甲州街道から中央高速道路の国立・府中ICに入る交差点の新宿よりの400m手前にあります。副葬品などから時代は650年前後と考えられていますが、埋葬された人の名前は分かっていません。写真をご覧下さい。

015 010 009

この古墳を見てさまざまなことを考えさせられます。650年と言えば飛鳥時代です。仏教が伝来し飛鳥地方では所謂、飛鳥佛という仏像が多数作られ、その大らかな表情が現在までも日本人の心を捉えているのです。その一方で仏教とは関係の無い巨大な墳墓が各地で作られていたのです。お釈迦様は自分が死んだら墓を作るな。骨は野に捨てよと言い残して涅槃に入られたのです。インドへ経典を求めて旅をした玄奘三蔵法師も墓を作らせませんでした。西安の郊外の荒れ野に骨を捨てさせたのです。その遺骨の一部がめぐりめぐって埼玉県の岩槻市のあるお寺に祀ってあります。(この事実はこのブログに何度か掲載してあります)

650年前後は古い古墳時代の文化と新しい仏教文化が並存していたのです。丁度、縄文文化と弥生文化がかなり長い間並存していたようなものです。

学校で習う歴史では古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代と年号を区切って教えます。その無意味さを考えながら写真を撮って来ました。

お近くの方は一度、是非ご覧になるようにお勧めいたします。その巨大さに驚くと思います。(終わり)


玉川上水の新緑の写真をお送りします

2010年05月04日 | 写真

新緑の美しい季節になりました。それをを写真で表すのは本当に難しいですね。何度も試みましたが良く表現出来ません。先程、構図をいろいろ変えて撮ったものをトリミングしてみました。玉川上水の三鷹市内の様子です。出来の悪い写真ですがお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

あの有名な作家が死んだのはこの少し下流でした。もう60年も昔の事ですが、当時の新聞記事を今でも鮮明に憶えています。

007_2


悲しい出来事は死ぬまで続く・・・それが人生と分かっていても

2010年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム

Shiyuzitub131

老年になり、孫も居て何不自由しない生活をしています。幸い家内も元気で、時々一緒に旅行をしたり、趣味のヨットをしたりして悠々と暮らしています。もう何が起きても驚きません。悲しくもありません。何せ後は自分が静かに死ぬだけですから。

このように思って生活していますが、吃驚したり、悲しんだりする出来事が次々と起きて来ます。死ぬまで悲しい出来事が続くのが人生です。

今日は大きな悲しい出来事を書きます。10年間、カトリック小金井教会の主任司祭をしてきた山本量太郎神父様が転任になるという発表がありました。目の前が薄暗くなったような気分がここ数日続いています。40年前私が立川教会で洗礼を受けた時、彼は神学生でした。父上が私の代父(洗礼のときの介添人)をして下さいました。その後関口教会での神父になる叙階式に参加し、大きな感動のうちに御祈りを捧げました。

10年前のある日、突然私共の教会の主任司祭として来てくれたのです。お会いしたのは20年以上ぶりです。始めての説教で、神父としての抜群の才能が分かりました。理路整然としています。感情に走りません。それでいてイエス様を私共の眼前へ現わしてくれるのです。説教には無駄な言葉が一言もありません。そのまま本になるように推敲してあります。

知性豊かで、その上優しい性格なのです。このブログで私は仏教のことや神社のことをよく書きます。何を書いても怒られたことはありません。時々、「読んでいますよ」と言ってくれます。それだけです。神津島の「おたあジュリア」のことを書いたブログ記事などを教会報へ転載して下さいました。

山本神父様の居ない教会へは行きたくありません。そうです。これが「人につまずく」という事とは理性の上では分かっています。第二次大戦中に戦争に協力した教団に失望しキリスト教の信仰を捨てた人の告白文をこのブログで連載したことがあります。そして最後に私は賢こげに、「教団幹部という人につまずいた事は間違いです」と書いてしまったのです。同じ間違いを逆の意味で犯しかねません。しかし、私は知っています。悲しむだけ悲しんだら又私がイエス様の所へ戻って行くことを。

この年になると同級生がポツリ、ポツリと旅立って行きます。悲しい思いをします。

それ以上に精神的に依存し、甘えてさえいた山本神父様が居なくなるのです。

彼の転任先はカトリック関口教会の主任司祭です。本部教会です。やがて大司教や枢機卿におなりになってイエス様の弟子としてもう少し大きなお仕事をなさる方です。その優秀さと圧倒的な信仰の強さから我々夫婦でそのような会話をしていました。それを考えると悲しむより喜ぶべきと分かってはいます。素晴らしい神父様です。この前のミサの後で信者達が彼の周りに群がって別れを惜しんでいました。

今日は山本神父様のご健康と平和をお祈りして、この稿の終りとさせて頂きます。

縁あってこの文章を読んで下さった方々へ感謝いたします。藤山杜人

(上の挿絵の写真の出典http://www.kitakaido.com/index.html