アメリカの官僚は常に一般人の意見を尊重しようと努力します。一方日本は官僚国家で官尊民卑の考えが底流にあり一般人の意見は無視されがちです。民社党が政権をとってからこの間違いを是正するため事業仕分けや政治家による官僚の指導が行われています。ところが今日、アメリカ大使館からメールが来ました。一般の日本人との交流を試みているという趣旨です。そこでこの機会に以下のような公開質問状を送りました。さてこのメールに返事はあるでしょうか?
この件に関して皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。(終り)
=========公開質問状========
@屈辱の思い出
日本でオリンピックが1964年に開催され、それに続いて大型工場の生産が軌道にのり、奇跡的な経済成長をとげた。
しかし、それ以前にアメリカに行った日本人は、日米の生活レベルの差の大きさにガク然とした。自国の貧しさが身にしみた。その上、外貨制限のため、極端に少ないドルしか持って行けない。路頭に迷う恐怖感を感じながら、旅の空の毎日をやりくりした。
当時の日本にはスーパーもファミリーレストランも無く、戦後の駅前食堂だけが土ぼこり舞う広場に有った。自家用車も高速道路も無い国から行くと、アメリカのハイウェイを走る大型車の列を見て深い感慨にとらわれる。1964年以前に訪米した日本人がよく書いている。「こんな豊かな国とまともに戦争をしようとした軍人指導者や政治家は酷く愚かだ。徹底的に負けたと屈辱を感じる」
この屈辱感には複雑な原因が絡まっている。賢い戦略をとれない軍部や政治家を持った恥。客観的に国力を考えようとしない国民。科学技術の大きな遅れ。独創性の無さ。そして食うや食わずの在米生活。日本人は劣等な人種ではないか?そんな思いが脈略もなく心を乱す。
1960年から1962年にオハイオ州立大学の大学院にいる間、このような屈辱感を感じながら大学へかよった。
@栄光の思い出
隔世の感である。1988年から1990年にオハイオ州立大学で働いた。州都のコロンバス市の近郊にマリオンという街があり、ホンダの大規模な乗用車工場が生産を続けていた。経営は大成功し、本田宗一郎さんも度々来ていた。
大学の同僚教授や学生を連れて工場見学へ行った。緑輝く牧場に囲まれた工場は隅々まで清潔で、色々な人種が混じって働いている。組み立てラインでは車台がユックリと流れ、工員がキビキビと正確に部品を取り付けている。
帰ってきた同僚教授や学生が言う。「こんなに清潔な工場は初めて見た」、「こんなに楽しそうに働いている工員を見たことが無い」、「人種差別が無い。違った人種が見事なチームワークを作っている」、「自由と平等とはこういう工場管理なんだね」、「ミスターホンダは工員とも直接握手するそうだね」、「こんな立派な会社なら研究費をくれるかも知れないね。仲介してくれないか?」
ホンダ工場には何の関係もない筆者だが、何か大いなる栄光の余波に包まれたような体験を味わう。
@鬼籍に入った本田宗一郎氏の思い出
所属していた学科の主任教授と相談し、アメリカホンダの社長のN氏へ手紙を書く。それがアメリカ流だという。そしてしばらくして社長へ電話する。社長秘書が出る、「連絡を待ってました、この案件は日本の本社に連絡してありますので、最終的には本田宗一郎氏に会って頂いてから決定します。どうぞ本社のこの窓口へ連絡して下さい」と言う。
本田宗一郎氏とお会いした顛末は「外国体験のいろいろ(17)」として2007年12月7日にこのブログに掲載してある。研究費は貰えなかったが本田氏から1時間にわたり個人的なお話をお聞きした。
1960年と1988年。その間28年間の日本の様変わりは大きかったと思う。昔の深い屈辱感がウソのように霧散してしまう。
上にある写真は州都、コロンバス市のホームページから転載した市の中心部。高層ビルが6棟見えるが1960年当時は2棟しか無かった。中央にある、尖ったビルにはディッシュラーヒルトンホテルがあり、そこでカルフォルニアシャンペン・カナッペとウェディングケーキだけの質素な披露宴をしたことを思いだす。あの頃は本当に貧しい新婚生活を送ったものである。
それにしても日本は豊かになったと深く感じ入る。
(上の写真はオハイオ州の州都のコロンバス市の中心部です)
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人