後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

アメリカ大使館の開放性を示す実例です

2010年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカの官僚は常に一般人の意見を尊重しようと努力します。一方日本は官僚国家で官尊民卑の考えが底流にあり一般人の意見は無視されがちです。民社党が政権をとってからこの間違いを是正するため事業仕分けや政治家による官僚の指導が行われています。ところが今日、アメリカ大使館からメールが来ました。一般の日本人との交流を試みているという趣旨です。そこでこの機会に以下のような公開質問状を送りました。さてこのメールに返事はあるでしょうか?

この件に関して皆様のご意見を頂ければ嬉しく思います。(終り)

=========公開質問状========

米国大使館、公報文化交流部
クリスタル・プライヤー殿
拝復、
この度、「Connect USA」というウェブサイト(http://ConnectUSA.jp)を開設したという
お知らせを頂きまして、誠にありがとうございます。日本の一般人との対話を進めるための
サイトであるとの事に大変感動いたしました。
何故、感動したか?私も含めて多くの日本人は、「在日米国大使館は日本の
外務省の官僚だけと対話・交流をしている」と判断しています。
それを一般人とも対話しようとしているのです。この姿勢に感動したのです。
さて、私は折角の良い機会ですので、公開質問状をお送りすることにしました。
このメールとプライヤー殿からのご返事は全て、訂正なしで私のブログ上で公開
致します。質問は以下の3個です。
(1)このウェブサイトを早速拝見しました。大使自身が、「アメリカの独立記念日の祝い
方」を書いていらっしゃいます。分かり易い説明なので、私のブログへ転載したいと思います。
質問は、このウェブ上の記事を転載する場合その許可を著者から一々頂く必要があるでしょうか?
出典は勿論、明記しますし、謝意も記します。如何でしょうか?大使は忙しく、返事など
大変と想像出来ます。
(2)一般の人々が微妙な日米問題に関して個人的な意見を送っても良いものでしょうか?
例えば、普天間基地問題で前の鳩山さんは軽率なことをしました。それに対して賛成の
人も居ますし、反対の人もいます。私自身は鳩山さんは、ご自分でもそう言っているように
愚かだと思います。しかし多くの日本人は米軍基地には感情的に反対しています。
そんな意見でも受け付けるのでしょうか?
(3)最後の質問は、そちらへ送った日本人の意見の、その後の取り扱い方についてです。
ご存知とは思いますが、日本では官僚へ意見書を送っても返事がありません。ナシのつぶて
です。一般からの投書は握り潰す場合いが多いのです。
そこで質問は、一般人からのメールは誰が読み、その後はどのように処置するのでしょうか?
分かり易く言えば、どうせ握り潰すのだろうと思う人々が多いのです。握り潰すなら
始めからメールを送るのは止めようと思うのが自然です。
ご返事をお待ちしています。ご返事は日付も含めて訂正無しで、私のブログへ
公開いたします。
このような対話が、建設的だとプライヤー殿が信じて頂ければ大変嬉しく
存じます。
有難う御座いました。
敬具、ブログ上での名前の藤山杜人より、

思い出・3題・・・風景画を見るようにご覧下さい!

2010年07月02日 | 日記・エッセイ・コラム

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@屈辱の思い出

日本でオリンピックが1964年に開催され、それに続いて大型工場の生産が軌道にのり、奇跡的な経済成長をとげた。

しかし、それ以前にアメリカに行った日本人は、日米の生活レベルの差の大きさにガク然とした。自国の貧しさが身にしみた。その上、外貨制限のため、極端に少ないドルしか持って行けない。路頭に迷う恐怖感を感じながら、旅の空の毎日をやりくりした。

当時の日本にはスーパーもファミリーレストランも無く、戦後の駅前食堂だけが土ぼこり舞う広場に有った。自家用車も高速道路も無い国から行くと、アメリカのハイウェイを走る大型車の列を見て深い感慨にとらわれる。1964年以前に訪米した日本人がよく書いている。「こんな豊かな国とまともに戦争をしようとした軍人指導者や政治家は酷く愚かだ。徹底的に負けたと屈辱を感じる」

この屈辱感には複雑な原因が絡まっている。賢い戦略をとれない軍部や政治家を持った恥。客観的に国力を考えようとしない国民。科学技術の大きな遅れ。独創性の無さ。そして食うや食わずの在米生活。日本人は劣等な人種ではないか?そんな思いが脈略もなく心を乱す。

1960年から1962年にオハイオ州立大学の大学院にいる間、このような屈辱感を感じながら大学へかよった。

@栄光の思い出

隔世の感である。1988年から1990年にオハイオ州立大学で働いた。州都のコロンバス市の近郊にマリオンという街があり、ホンダの大規模な乗用車工場が生産を続けていた。経営は大成功し、本田宗一郎さんも度々来ていた。

大学の同僚教授や学生を連れて工場見学へ行った。緑輝く牧場に囲まれた工場は隅々まで清潔で、色々な人種が混じって働いている。組み立てラインでは車台がユックリと流れ、工員がキビキビと正確に部品を取り付けている。

帰ってきた同僚教授や学生が言う。「こんなに清潔な工場は初めて見た」、「こんなに楽しそうに働いている工員を見たことが無い」、「人種差別が無い。違った人種が見事なチームワークを作っている」、「自由と平等とはこういう工場管理なんだね」、「ミスターホンダは工員とも直接握手するそうだね」、「こんな立派な会社なら研究費をくれるかも知れないね。仲介してくれないか?」

ホンダ工場には何の関係もない筆者だが、何か大いなる栄光の余波に包まれたような体験を味わう。

@鬼籍に入った本田宗一郎氏の思い出

所属していた学科の主任教授と相談し、アメリカホンダの社長のN氏へ手紙を書く。それがアメリカ流だという。そしてしばらくして社長へ電話する。社長秘書が出る、「連絡を待ってました、この案件は日本の本社に連絡してありますので、最終的には本田宗一郎氏に会って頂いてから決定します。どうぞ本社のこの窓口へ連絡して下さい」と言う。

本田宗一郎氏とお会いした顛末は「外国体験のいろいろ(17)」として2007年12月7日にこのブログに掲載してある。研究費は貰えなかったが本田氏から1時間にわたり個人的なお話をお聞きした。

1960年と1988年。その間28年間の日本の様変わりは大きかったと思う。昔の深い屈辱感がウソのように霧散してしまう。

上にある写真は州都、コロンバス市のホームページから転載した市の中心部。高層ビルが6棟見えるが1960年当時は2棟しか無かった。中央にある、尖ったビルにはディッシュラーヒルトンホテルがあり、そこでカルフォルニアシャンペン・カナッペとウェディングケーキだけの質素な披露宴をしたことを思いだす。あの頃は本当に貧しい新婚生活を送ったものである。

それにしても日本は豊かになったと深く感じ入る。

(上の写真はオハイオ州の州都のコロンバス市の中心部です)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人