後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

どんなに日本の技術が高い水準でも航空機だけは作れない現実

2010年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

埼玉県の所沢には昔、陸軍の飛行場があり、明治44年、徳川大尉が始めてフランス式の飛行機を飛ばせたのです。そこには現在、航空発祥記念館があり現在の陸上自衛隊の使っていた飛行機が数多く展示してあります。自衛隊で使っている飛行機はほとんど全てアメリカ製です。日本の民間航空会社の旅客機もアメリカ製です。

私は戦後教育を受け、「科学技術はアメリカに追い付き、追い抜け!」 という掛声にしたがって、ある分野の工業技術の研究をして来ました。色々な分野の日本の技術はアメリカに追いつきましたが、航空機製造技術だけは絶対に追い付けないのです。今後も追いつけないでしょう。

所沢の、航空発祥記念館を訪問する度に、暗澹たる気持ちになって展示物を見て回ります。他の人々は展示してある全ての飛行機を日本製と誤解しているのか楽しそうに見ています。決して暗い表情はしていません。

何故、日本の航空機製造技術はアメリカに絶対に追い付けないか?を説明する前にプロペラのついたアメリカ製の輸送機とジエット戦闘機の写真を示します。2枚の大きな写真の下にはプロペラ軸を高速に回転させるための9気筒の星型エンジンとジェットエンジンの写真も示します。全てアメリカ製です。

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YS-11という国産の旅客機がありましたが、エンジンだけはローリスロイス製のものを使っていたので純粋に日本製とは言えません。

第二次世界大戦で勝ったアメリカは日本占領と同時に全ての日本の飛行機を破壊し、その後一切の航空機産業を厳しく禁じたのです。朝鮮戦争ではアメリカの空軍機の簡単な修理をするようになり、その後航空自衛隊の拡大に従ってアメリカの空軍機を日本で組み立てることを許します。日本独自で飛行機を設計、開発することは長い間、禁じられてきました。

航空機技術の一番難しい部分は軽くて大きな出力のあるジェットエンジンを開発することです。そしてエンジンは一旦始動したら絶対に故障してはいけません。エンジンの故障は、即墜落になり大きな事故になります。安全で軽くて大きな馬力のエンジンを作る方法は長年の経験の積み重ね以外に道が無いのです。どんなにコンピューターが発達しても、それで設計したエンジンの信頼性は長い間使ってみなければ絶対に分からないのです。

飛行機産業の技術レベルは墜落事故の数に比例して上がります。墜落の原因を究明して、その原因を根気よく取り除くことが信頼性向上の一番確かな方法です。軍用機はある程度安全性を犠牲にして攻撃能力を高めます。軍用機で安全性に信頼が置ける飛行機が育ったら、その技術を民間旅客機へ解放するのです。

従って軍用飛行機を多数製造しているアメリカは旅客機の製造技術も自然に高くなるのです。どうでしょうか?ここまで説明すると、日本では絶対に値段と安全性の上でアメリカを凌ぐ飛行機が製造出来ない理由がご理解頂けたと思います。

日本の工業技術は軍需産業と関係の少ない自動車や家電に限定すれば世界一の技術と誇っていられるのです。

時々、「日本の工業技術は世界一だ」 と気楽に話す人がいます。

そんな話を聞くたびに私は暗い気持ちになります。皆様はどうでしょうか?暗い話は終わりにしたほうが良いので止めます。(終わり)


あなたの生まれる前の事でもお読み下さい(2)日本人の酷い飢餓体験

2010年07月19日 | 写真

経済の高度成長が始まった1970年頃以後、日本から「食糧難」ということが無くなりました。しかし1943年頃から1960年頃までは食べることに困った人々が沢山いたのです。

今日は特に酷かった1944年から1951年の頃までの私自身の体験を書いてみました。

少年のころ過ごした仙台では昭和19年ころから戦後の昭和26年頃まで食糧難の時代でした。仙台だけでなく全国の都市は全て食糧難に遭遇したのです。特に1944年、45年、46年には餓死者も沢山出ました。しかし、食糧難の時代も遥か昔になり、60年近くなると日本人は全て忘れてしまったようです。最近は、誰も食糧難のことは話さなくなったのです。

昭和19年になると米の配給も不足し、お粥や大根の葉を刻みこんだご飯になりました。サツマイモやジャガイモの蒸かしたものに塩を付けて昼食にするのです。庭でとれたカボチャを夜のご飯へ混ぜて炊きます。肉などは何ケ月も見たことがありません。だだし、仙台は塩釜漁港に近いので腐った臭いのする激塩のタラ、ホッケ、ニシン、イワシ、が一品だけ何日か間をおいて魚屋に並びました。三陸沖で取れるクジラ肉も並ぶ日もありました。製氷機が無いのですべて塩を多量に使った塩付けです。それでも腐り、凄い臭いがします。今書きながら臭いの酷さと塩辛さを思い出して生唾がほとばしります。そのせいで塩味の濃い料理が好きになりました。臭い魚は腐っているのではなく、発酵しているの場合が多いので食べられるのです。

そんな食生活も敗戦の8月15日の後に一変しました。社会の秩序がなくなると食料の輸送や流通経路が途絶し、店からは食料関係の商品が消えてしまったのです。毎日、食べるものが無い日が続きました。

ひもじさの余り、友達に教わったアカザ、スカンポ、ハコベ、オオバコなどの葉や茎を野山から採ってきて醤油で煮付けたり、おひたしにして食べました。そんなものでは空腹はおさまりません。米を精米するとき出る糠に少しの小麦粉を混ぜてフライパンで焼いたパンも食べたものです。

しかし、不味い物は喉につかえるのです。赤い高粱もゆでて食べました。

戦後しばらくして進駐軍の食糧援助で軍隊用の豆のケチャップ煮の大きな缶詰めが配給になりました。不味くはないし、栄養があって元気が少し出たものです。それに加えて、精製していない赤っぽい砂糖が多量に配給になったのです。米の配給の代用品です。カルメ焼きという玉杓子のような形の銅の小鍋で砂糖を溶かし、溶けたら重曹を付けた棒でかき回し、冷やすと、フックラと膨れ上がった砂糖菓子が出来るのです。子供でも面白いように出来、食べるとサクサクとして実に美味しいのです。しかしいくら食べても米のご飯の代わりにはならないで、すぐ飽きます。人間は砂糖だけでは生きて行けないという体験をしました。

肉に餓えていたので、何処の家でも鶏やウサギを飼っています。毎日2個の鶏卵を5人の家族が分けて食べました。卵を産まなくなったら殺して鶏肉を食べ、ウサギも殺して食べるのです。大人が殺して皮を剥いで、肉を鍋にするのですが、美味しくないのです。いくら食糧難でも、可愛がっていた鶏やウサギを食べて美味しいはずはありません。

1960年にアメリカへ留学したとき、毎日肉が好きなだけ食べられることに吃驚した。それは大きなショックでした。

こんな国と戦争すれば負けるのが道理だと胃袋が教えてくれたのです。

現在でもレストランやパーティで肉料理が出ると、その有難さに思わず頭が垂れます。そして、ひもじかった仙台での日々が、悲しい追憶として思い出されるのです。

敗戦には必ず飢餓体験が伴なうのです。後年、親しくなったドイツ人に私の飢餓体験を話しました。ドイツも全く同じだったと悲しそうに話して居ました。(続く)

今日は世界中から食糧難の時代が無くなるように心からお祈り致します。藤山杜人