後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

イエズス会石神井修道院の写真だけを、とりあえずお送りいたします

2010年07月26日 | 写真

このブログの記事ではいろいろな方々のインタビュー記事もあります。今日は気楽な気持ちで、イエズス会石神井修道院を取材してきました。

ところが、お会いして下さった塩谷恵策神父様に感銘を受け気楽な訪問記が書けなくなりました。博識な上、学問的に体系化された修道院の歴史を明快にご説明して下さいました。何も知らない小生へ分かり易くお話して下さったのです。

イエズス会士にお会いするのは初めてでした。昔から東洋文庫で中国や日本のイエズス会の会員の活躍を読んでいました。イエズス会士に会えるだけで興奮したのですが、お話の内容があまりにも感動的でした。これから少し調べたり、考えたりしてから記事として数回に纏めて見たいと思います。イエズス会の歴史、修道院の種類とそれぞれの役割、ヨーロッパ文化が投影されている教会組織と修道院の関係などを考えて、整理して記事に出来れば幸いと思っています。

今日は取りあえず、4枚の写真をお送りいたします。

上から順に、石神井修道院の書面玄関、船越保武氏作の和風姿のマリア様、石神井修道院の主聖堂、塩谷恵策神父様の御写真の4枚です。

なお船越保武氏は長崎の公園にある26聖人像を造った芸術家で、それに対して高村光太郎賞が1962年に与えられています。敬虔なカトリック信者で東京芸大の教授も務めました。

まず4枚の写真だけをお送りいたします。007 011 015 010


今日は土用の丑の日、蓮田の中に浮かぶ山中のウナギをご紹介します

2010年07月26日 | インポート

JR常磐線の土浦駅を下車し、東口からタクシーで沖宿方面へ行くと一面に蓮の葉が広がっています。その蓮の葉に浮かぶように藁ぶき屋根の農家風の山中屋が有ります。「うなぎの山中」という看板が蓮田に立っています。

うなぎは焼きを強めにし、濃い昔風の味付けです。天然仕立て風のウナギを昔風の濃いタレで出しています。季節によっては白魚の刺身も出てきます。

その他に、川海老の天麩羅や釜揚げもあります。蓮の葉を渡ってくる夏風にビールを傾けるのも良いと思います。

「うなぎの山中」はHPを持っていませんので、電話0298-28-0804で場所をよく聞いて、地図で確かめた上で行かないと大変です。土浦駅東口から数キロ離れた交通不便な田舎にあります。タクシー以外はバスもありません。霞が浦観光へ車で行って、寄るのに丁度良いと思います。

下の写真にはシラウオのサシミと、その右奥にカバヤキの重が写っています。白魚は酢味噌で食べます。(一皿1000円)

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

(下の写真は2008年10月26日に撮ったものです)

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壇の浦の悲劇と関ヶ原の悲劇・・・平家の落人部落の伝説の真贋は?

2010年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

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壇の浦で平家を滅ぼした源氏は鎌倉幕府をつくり我が世を謳歌します。一方平家にとっては壇の浦は最大の悲劇です。1185年の事です。

そして約400年後、関ヶ原の合戦で勝った徳川は新しく江戸に全国統治の首都を作り、260年権力を保持します。負けた豊臣勢や石田三成一派にとっては関ヶ原は最大の悲劇になりました。その一例は続編で書きます。

このように勝利の歓喜と負けた側の悲劇は切り離すことが出来ません。人の世の悲しい定めです。心ある人々は勝敗は運命に過ぎない。負けた方が悪いという冷酷な考えを持ちません。善悪の判断の空しさを知っているからです。

そこで負けて、悲劇に見舞われた側へも温かい支援の手を差し伸べます。可能な限り保護します。そのような人間の優しさを伝えているのが平家の落人の伝説です。それを知る度に人間の悲しさと、優しさを感じて静かな気持ちになります。

平家の落人は全国のあちこちにあります。しかし記録が残っていてところは多くはありません。記録が無くても私は信用します。

ところが明確に記録の残っている落人もあります。栃木県日光市湯西川温泉です。

記録に従って、「平家の里」という落人の里を復元したテーマパークも作られています。

上の写真がその様子です。訪れてみると、付近は水田も作れず畑作もままならない谷間の寒々しい土地です。

そことを考えると復元、展示されている家々は少し立派すぎるようです。復元した人々が落ち延びた平家の武将を哀れんで立派に作ったのかも知れません。平家一門に関する数々の品や木工の道具類が展示されています。壇ノ浦近くの赤間神社から、テーマパーク建設の時に分祀した小さな神社もあります。そのおりに贈られた長門本20巻の復刻版も展示してあります。栃木県の湯西川から遥か遠方の壇の浦はどのような経緯で繋がっているのでしょう?

壇ノ浦の戦いのあと、平家の武将、平貞能(さだよし)は平重盛の妹の妙雲禅尼を助け、宇都宮まで逃げて来たのです。宇都宮の領主の藤原朝網に保護されようと思ったのです。しかし朝網は困ります。そこで付近の最高峰の高原山へ一行を隠します。ところが一行のなかのある女が男の子を安産します。御祝に鯉幟をあげます。山裾に居た落人探索中の源氏方がその鯉幟を見つけてしまったのです。当然攻め込まれます。そこで落人の一団は二手に分かれ貞能(さだよし)は塩原へ逃げ、さらに遠く、仙台の西の作並温泉近くまで落ちて行きます。一方、貞能の一団の他の落人は塩原のさらに西の険しい山々に分け入り、現在の湯西川温泉の地に隠れました。そこまでは記録も残っているのです。

仙台の作並温泉近くまで行った貞能は出家して定義(じょうぎ)と名乗り出家します。この定義は「さだよし」とも読めます。作並から山に入りこんだ所に現在も定義温泉があります。出家して定義と名前を変えた貞能はそこで天寿をまっとうしました。住んでいた堂を後の人々が定義不動堂として現在に到っています。私は仙台で育ったのでこの定義温泉へは3回くらい行ったことが有ります。兎に角、交通の便の悪い山奥にあります。成程、平貞能が逃げ込んだ山奥だとしみじみ納得します。近くの作並温泉へは数え切れないほど行きましたが。定義温泉は遠すぎます。平家の武将、平貞能は死んで、定義不動堂になりました。壇の浦から遥かに遠い東北の寒い山奥で過ごした日々、平貞能は何を考えて生きていたのでしょう。

もっと詳細は「湯西川温泉」と「定義」をキーワードにして検索するとご覧頂けます。

撮影日時:2008年12月1日午前10時頃、撮影場所:湯西川温泉1042、「平家の里」(電話:0288-98-0126)・・・・・終り・・・・・・・・・・         

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人