中国と日本の間には時代によっていろいろな感情が渦巻いて来ました。遣唐使を送ったり、戦争をしたり、憎み合ったり、尊敬しあったり、大きな感情が揺れ動いたのです。東洋鬼子とか米帝国主義の手先などという呼び方もされました。
冷戦下の中国は日本に敵対し、緊張した関係が続きました。ところが1976年、4人組の逮捕により文化大革命という内戦も終わったのです。鄧小平が実権を握り、改革開放政策へ転換します。その頃の政策は日中友好を熱烈に進め、日本に学び、中国の産業の大発展をしようとしたのです。それは一大国家方針として続いたのです。1972年、田中角栄さんが周恩来と結んだ日中平和条約が1980年頃になってやっと花を咲かせたのです。
その頃の中国人は日本人を大歓迎して、情熱的に大切にしてくれたのです。しかしそんな時代も1985年頃になると反日へと変わって行きます。特に鄧小平から江沢民へと政権が代わってからは反日感情が酷くなり、靖国神社問題や南京虐殺が大きく日中間に立ちはだかります。現在は穏健な主席と首相になって正常な関係になっています。
私は縁あって1981年から1985年にかけて数回中国側から集中講義に招かれた経験があります。大歓迎されました。その経験が心に焼き付いてしまっています。中国人が大好きになりました。その経験だけを大切にし、江沢民時代の中国人は本当の中国人ではないと、現在でも信じています。以下は、私の小さな対中経験の一端です。
若い日本人へ伝えて置きたい中国人の姿です。温かい心情です。
◎変えられた対中国観
ある外国への感情について、その国の人々からどんなことをされたかという、個人的な経験が決定的に重要になる場合が多いと思います。そんな意味で、私はかって在住したアメリカとドイツには特別な感情を持っています。また、中国には招待されて集中講義に4回行きましたので、同じ経験のあるスウェーデンとともに愛着を持っています。 私の中国観の形成過程で一番重要だったのは、1969年と70年、ドイツのストッツガルト市にあるマックスプランク研究所で、フンボルト奨学金を受けて研究をしていた時に得た体験でした。
@独研究者の言葉
1969年以前はアメリカ在住の影響もあり、共産党の中国は嫌いでした。また、第二次大戦中の中国を「支那」と蔑視する文化の中で育ちましたので、中国に対しては内心深く軽蔑していました。しかし、研究所で「固体電解質の物理」という専門書の一つの章を共同執筆した研究者プルシュケル氏の言葉が私の考えを根底から変えました。
「日本人は中国人を軽蔑しているが、欧州人は中国を軽蔑している日本人を信用も尊敬もしないよ。もっと東洋と西洋の文化と相互交流の歴史を考えて、東洋の利益を考えるべきでは」「西洋の近代植民地主義に便乗するのではなく、東洋の利益、日本の利益を基本的に考えて西洋諸国と交流するのがよいと思う」
プルシュケル氏は東ドイツにある村に同姓の村人数百人と一緒に住んでいました。ロシア軍が侵入した時に同族は皆殺しに遭い、1人だけ生き延びて西ドイツに逃げ、研究所の主任研究員(後に大学教授)になった人です。ロシア人を憎んでいないのかとの質問に、「ドイツが電撃作戦でロシアに侵入した時、若いロシア人を2000万人も殺した。ロシア側は当然のことをしたので特に憎む気持ちはない」と答えました。このような男が「日本人は中国人と信頼関係を維持したほうがよい」と言うので、深く考え直すキッカケになりました。
@周栄章教授のこと
1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会った時、この話をしました。周氏は共産党員で、共産軍とともに天津市を占領し、民生行政に参加した人でした(周氏との出会いが後に中国へ行くキッカケになりました)。
周氏は日本軍が真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃した時、ものすごくうれしかったそうです。日本は太平洋へ軍事作戦を拡大するので、中国本土の戦争は中国にとって楽になると考えたからです。実はこれだけではないようでした。西洋植民地主義で清朝以来痛めつけられた中国人にとって、兄弟分の日本が西洋人に痛撃を与えたからです。 海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になると思います。周栄章教授は2004年に亡くなりました。
◎地下室で見た中国人の本音
中国の首相、周恩来が死んだ時、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。1981年に北京にいた私に、旧知の周栄章・北京鉄鋼学院教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。
暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。このような体験は、中国では権力者と一般の人々との考えが違うことを教えてくれました。
中国東北部の瀋陽に行った時、東北工科大學の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で言いました。そこで、東北大学金属工学科で電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しましたら、「悪い先生もいましたが、大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は忘れません」と懐かしそうでした。中国人、少なくともインテリの方は個人の付き合いと国家同士の論争とは分離して考えているようです。
外国人の私を中国人は本当に家族の一員のように自宅へも招待してくれました。故宮や夏の離宮も訪問しました。彷膳飯店で清朝の宮廷料理をご馳走してくれました。万里の長城や明の13陵へも案内してくれました。遠く西安まで招待してくれて、遣唐使の滞在したお寺を見せてくれました。玄奘三蔵法師の翻訳事業をした大雅塔の頂上まで登りました。各地で会った群衆が、私を日本人と知ると大歓迎するのです。
それは熱情という感じでした。これが私の中国です。あれ以来、中国へは行かないようにしています。心に刻んだ善い中国の想い出を大切にしています。そんな熱烈日中友好の時代が存在したのです。この事実を若い日本人へ是非伝えたいと思います。
今日も皆様の健康と、日中友好が永遠に続くことをお祈り致します。 藤山杜人