後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

つまらない話のついでにもう一つ・・・庭に実のる葡萄の写真

2010年07月23日 | 写真

葡萄畑の一面に広がる山梨県、勝沼から葡萄の苗木を買って来たのは20年以上前です。それを庭に植えて十数年して、やっと葡萄の実の房を付けるようになりました。

味はすごく不味いです。渋くて、酸っぱくて食べることが出来ません。毎年、ブドウの房を切り取って、緑豊かな葉とともに生花のように室内に飾って楽しんでいます。

緑豊かな時期、葡萄の実が紫になる時期、そして葉が紅葉する時期と3回楽しめる生花です。今年の初めての葉の緑と葡萄の実の緑の違いをお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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皆様には詰まらない話で恐縮です!私の大工趣味

2010年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム

いつもは野球部の練習で忙しい中学2年の孫が来て、遊んでくれと言います。暫く一緒に遊んだことが無く、数か月ぶりです。初めての孫だったので、以前は山小屋へ行ったり、ヨットから釣りをして遊びました。いつの間にか大きくなって、大人と子供の間のような顔です。どんな遊びをして良いか思案にくれます。

そこで前から大工仕事の趣味のことをブログへ書いてみようと思っていたので、道具類の絵を書いて貰うことにしました。カナヅチ、ペンチ、ドライバーにムクゲの花を一輪そえました。出来あがった絵を下に示します。

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この絵にあるドライバー、カナヅチ、ペンチ、それに加えて、ノコギリ、モミキリ、電動ドリル、電動ノコギリ、作業台とそれに取りつけた万力でいろいろなものを作りました。材木と釘やネジ釘はホームセンターから買って来ます。本来不器用なので、出来あがった作品は頑丈ですが見栄えが良くありません。そこで大部分は山小屋で使います。

若くて元気な頃は、山小屋の周りに3畳のバンガロー、2畳の風呂場、8畳のバーベキュー小屋を作りました。ガラス窓だけは出来あがったものを買ってきました。

しかし素人仕事の悲しさで20年くらいで、全て倒壊してしまいました。最近は元気が無くなったので山小屋で使うテーブルや椅子のような小物を幾つか作ります。

こんな木工趣味は仙台一高の時、木工部に属していたので覚えたのです。茫々60年程前に覚えたことです。それ以来、今でも暇つぶしの趣味として楽しんでいます。

詰まらない話でご免なさい。終りにします。

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能登の自然はあまりにも美しく、生活はあまりにも厳しい

2010年07月23日 | 写真

一泊2日で能登の和倉温泉、厳門、ヤセの断崖、輪島の朝市、白米の千枚田、珠洲の塩田、見附島と周遊しました。梅雨明けの空は蒼く輝き、海は紺青の水を満々とたたえ広がっていました。そして能登は山国なのです。その人気の無い風景は静まり返って夏風が浮いています。あまりにも美しいのです。土地が山がちな上、痩せていて米もなかなか実りません。仏教の盛んな土地で曹洞宗、永平寺派の総持寺が輪島のそばにあり門前町があります。農作物が取れないので生活のために始めた漆塗りが発達して、輪島塗は有名になりました。能登はいろいろな意味で加賀や越中とは風土も文化も異なる土地です。そのような能登の写真を掲載します。上から順に厳門、ヤセの断崖、白米の千枚田、漆塗り風景です。

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1965年頃までの日本の農村生活の実態

2010年07月23日 | うんちく・小ネタ

1965年頃までの日本の農村は本当に貧しかったのです。当時の農家の様子や生活を偲ぶには大変良い所があります。

川崎市の日本古民家園、小金井公園内の江戸東京建物園、小平市の小平ふるさと村などに展示されている農家などです。

見学して、展示してある農家の全てが、1965年、すなはち昭和40年代まで実際使用されていたのを知って愕然としました。しかも展示されている農家は裕福な大型農家ばかりです。小作人や貧農の農家は小平市以外では展示されていないのです。

裕福な農家とその台所の様子を注意深く見ます。すると、1970年頃までは電灯とラジオがある以外江戸時代と変わらぬ生活水準であったことが明快に分かります。いや、もう少し正確に言えば、雨戸の内側にガラス戸が付いたこと、脱穀機などに電気モーターなどが使用されたなど部分的には随分便利になってはいましたが。

明治維新以後農村でも、義務教育が普及し多くの人々は小学校を卒業するようになりました。しかし、小作人の子供は小学校を終ると直ぐに農作業を始めました。地主の子供だけは都会にある中学校や商業学校へ行けたのです。このような地主と小作人の関係はマッカーサーによる農地解放まで、江戸時代とあまり変わらなかったのです。地主だった老人のところへ、昔の小作人が野菜を持って来て、庭の地面にじかに座って話していたのです。そんな光景を、私は何回も見ました。元小作人は地主の家の玄関からは入らない。縁側には座らない。住んでいる家は藁ぶき屋根の粗末な小屋です。それが終戦までの多くの小作農民の実態だったのです。筆者の疎開先の農家ではご飯を毎日一回だけ炊く竈は別にありましたが、味噌汁を煮るのは一つの囲炉裏だけで行っていました。囲炉裏の回りは土間でなく高い板敷きになっていて、奥には畳敷の部屋が2つありました。水道は無く、井戸水でしたが電灯とラジオだけは有りました。

下に小平市の小平ふるさと村に展示してある、「裕福な農家」と「貧しい小作人の家」写真をしめします。どちらも江戸時代の農家です。

3枚目の写真は貧しい小作人の家の内部です。囲炉裏のある土間の奥にこのような竹や藁を敷いた寝室があります。

その下の2枚は裕福な農家の台所の様子です。井戸水を流しのしたの甕に汲み置き使っていました。囲炉裏の後の戸棚には箱膳や食器をしまう貧しげな戸棚があるだけです。囲炉裏の煙ですすけています。

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あなたの生まれる前の事でもお読み下さい(5)宮沢賢治と日本の軍拡時代

2010年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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宮沢賢治は日清戦争の終った次の年の明治29年(1896年)に生まれ、昭和8年(1933年)に37歳で死にました。その時代は日露戦争や第一次世界大戦が続き、その上昭和4年には世界大恐慌がありました。岩手県の花巻中学校、盛岡高等農林学校を卒業し童話や詩を書き出します。しかしその一生は困窮する農村の生活を少しでも楽になるように羅須地人協会を作り、花巻郊外に住み、農業の改良に努力します。その一生は文学者でもあり農村の困窮を助ける修業者でもあったのです。

しかし宮沢賢治の生きた時代の日本は農村の犠牲にたった過度な軍備拡張の時代だったのです。農村での食糧難は徹底的で、白米のご飯は死ぬ前に一回だけと言う地方が多かったのです。娘は都会の女中奉公に出たり、花柳界へ身売り されたのも多かったのです。

このような農村の窮乏の一方で、軍需産業は隆盛を極め、国民の税金の多くは軍備へと費えたのです。

写真にある軍艦や戦闘機、爆撃機の費用は想像を絶するような多額です。日本は何故このような酷い時代を通ったのか? 欧米との愚かな武力競争に邁進してしまったからです。このような軍隊の費用は農村を犠牲にして成り立っていたのです。

このような軍拡のお陰で疲弊した岩手の農村に宮沢賢治は生きて居たのです。強い稲の育て方、肥料の普及、病虫害の防止などを小作人へ教えるのです。

さてここからが本当に強調したい事を書きます。宮沢賢治は日本の過度な軍拡が原因で農村が疲弊している事を知っていたに違いありません。しかしその事実へ関心を持ちません。軍拡主義を批判するようなことを書きません。

ただひたすら仏教を信じ、小作人を助け続けたのです。本物の宗教の信者は政治に一切関係を持ちません。その時代の社会の動向にかかわりません。ひたすらお釈迦さまを信じ、弱い立場の小作人へ同情し、助けようとしたのです。宮沢賢治の文学作品も素晴らしいのは勿論ですが、彼の仏教徒としての生き方も素晴らしかったのです。

戦艦大和、金剛の写真の出典は:http://battleship-pictures.xrea.jp/photograph_p/senkan/yamato.php

です。下3枚の写真の出典は:http://www.naxnet.or.jp/~m-o/ です。

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