後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

懐かしい夏の花ーノウゼンカズラ、キキョウ、ギボシ、ヒマワリなどー

2010年07月20日 | インポート

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都会の花屋さんでは色鮮やかな新品種の花が次々と売り出され、昔風の懐かしい花々はあまり見かけません。でも、「山林の中の小屋」の近辺には相変わらず澄んだ色合いで静かに咲いています。山近い高原なので空気も汚れていません。

ノウゼンカズラ、ギボシ、キキョウなどの写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。

花の好きな小母さんの民宿を久しぶりに訪ね、撮らせてもらいました。1973年に山林の中に小屋を作ったとき、村の人々と別荘の人々が交流会をした民宿です。

小母さんは相変わらず元気で、花々をたくさん咲かせ、民宿を続けているそうです。

ご主人は短角黒毛和牛の育成の名人で何度も優等賞をとった人でした。香りの良い牛肉の美味しいスキヤキをご馳走になりました。お元気でしたが、年老いて牛の飼育は止めていました。年々歳々、花は同じですが、人は老いゆきますね。(終わり)

撮影日時:2008年7月20日午前10時前後、撮影場所:山梨県北杜市真原地区にて


自分が生まれる遥か前の日本海海戦を調べて見よう!

2010年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

多くの人間は自分が生まれた後に起きた事件には関心がありますが、誕生前のことには関心がありません。勿論例外もありますが、誕生前のことには関心が無いものです。私もそうでした。1936年生まれですので、1904年に起きた日露戦争などは、それより32年も昔の事なので一切関心がありませんでした。

ところが4年前に仕事を一切止めて引退してから急に昔の事件に強い関心や興味が湧いて来たのです。そこで、何故、日露戦争で日本が勝ったのか?日本海海戦で何故、東郷元帥が大勝したのか?という疑問が湧いてきました。

少し調べて見て簡単に理由が分かりました。

日英同盟のお陰で、イギリスが日本へ莫大な戦費を用立ててくれたからです。その上、旅順港にあったロシアの太平洋艦隊を支援するために派遣された、バルチック艦隊の航路に問題があったのです。当時の大英帝国はスエズ運河を支配し、アフリカ諸国、インド、ビルマ、マレー半島、シンガポール、香港などの植民地を持っていたのです。大英帝国の植民地の港へは入港出来なかったのです。

そこでバルチック艦隊はアフリカの喜望峰を迂回し、僅かに残った中立国の港で不十分な燃料と食料しか補給出来なかったのです。多数の水兵が長い航海中に死んでしまったのです。日本へ近ずいてきたバルチック艦隊は気息えんえんとしてやっと辿り着いた状態でした。もう日本海軍と戦う気持ちなど失せてしまっていたのです。

そのような艦隊を東郷元帥ひきいる大日本帝国海軍が遠慮会釈なく叩いたのです。勝利は闘う前から決していたのです。

公平に見れば日本海海戦に勝ったのはイギリスがバルチック艦隊の燃料と食料の補給を妨害したからです。イギリスのお陰で日本が大勝出来たのです。

それを日本政府が国民へ対して、東郷さんとその海軍が優秀だったから勝てたと大きく宣伝したのです。決して大英帝国のお陰で勝てたとは言わなかったのです。その事を知されなかった国民が独力で勝ったと誤解して、やがて日英同盟を破棄して、ドイツ・イタリアとの3国軍事同盟に走ったのです。

客観的な歴史を国民が知ることの重要性が分かります。そんなに重要な事実なら自分の生まれる前の事でも深く、客観的に理解すべきという一例です。

日本が真珠湾攻撃をし、ながて壊滅し、悲惨な運命に会ったのは昔のことを理解していなかったからです。

自分の誕生前のことでも強い関心を持ち、客観的に理解することが将来の平和につながると信じています。現在の若い方々へ参考になれば幸いです。(終り)

下に海戦で死んだロシアの将兵の銘板が壁に埋め込んであるロシア海軍の聖ニコライ聖堂の写真を示します。バルチック海沿岸のサンクトペテルブルグ市にあるそうです。出典は、バルチック艦隊のWikipedeaの項目の資料です。

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あなたの生まれる前の事でもお読み下さい(3)天皇を神と信じる事を強制された時代を忘れない

2010年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

第二次大戦中は天皇は神として信仰されていたのです。全ての宗教はそのような信仰を強要されたのです。そんな時代が日本にあった事を忘れないで下さい。

以下は毎日新聞記者であられた銭本三千年(本名、ぜにもと みちとし)氏のブログの文章です。お許しを得て転載いたします。私と同時代の方です。

 私は、クリスチャン・ボーイであると同時に「軍国少年」であった自分の不思議を、キチンと整理し、次世代に残す責務を感じています。是非、以下の告白を真剣に受け止めて下さることを、国民の皆様にお願いいたします。

原文のURL:http://zenmz.exblog.jp/1125365#1125365_1

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  この告白は、ある問いかけに対する私の内省から始まりました。
 数年前、大阪の短大で教えていた頃、一人の女子学生がこう質問したのです。
  「先生は、本当に天皇陛下を神と信じておられましたか?」 

 ドキッと来ました。授業の中で戦争体験を取り上げて
 「私が子どもの頃は、教室に入ると、先ず、先生から精神訓話があった。オマエたちは天皇陛下の赤子(せきし) 天皇陛下のお恵みによって、こうして勉強させていただいておる。そのご恩に報いるため、天皇陛下のおん為に死ぬ、それがオマエたち軍国少年の忠義の道だと、そして「天皇陛下は現人神(あらひとがみ)だった」
 と説明しました。その直後の質問です。
私は、
 「当時の子どもは、それを疑うことが許されなかった。あなたは信じたか?と、問われれば、キリスト教徒として幼児から育てられた私にとっては神は教会の十字架と共にあった。しかし、天皇陛下が現人神である、といわれても別に反発も矛盾も感じなかった」
 と答え、校門入り口にあったご真影殿や朝礼での東方遙拝が毎日、行われて、頭を垂れて天皇陛下への忠誠の固めをしていたことなど・・・天皇の神聖のシルシを説明しました。
ところが、この学生は事前準備をしていたようで、「司馬遼太郎著「歴史と視点』には現人神とは誰も信じていなかった、と書いてありますと言って、本のある一節を指し示しました。見ると、
 「もし私が小学校高学年か中学生のころに、天皇は神さまだ。というようなことを言ったとすれば、漫談でもやりはじめたかと同級生が大笑いするにちがいなく・・・・・」と書いてあります。ビックリしました。
司馬遼太郎氏の体験は私の体験と大きくズレています。私は、小学生の頃、京都・伏見の桃山に住んでいました。ここには明治天皇の桃山御陵とその忠臣・乃木希典を祭った乃木神社がありました。当時の国鉄京都駅から桃山御陵へは単線の伏見桃山線が特設されており、昭和天皇が屡々、参拝に来られました。

 天皇のお召し列車が通る度に沿線の国防婦人会や小学生は日の丸の小旗を手にお迎えに駆り出されました。遠く蒸気機関車がはき出すケムリが見えると、「キョーツケイ」の号令が掛かります。 一斉に直立不動の姿勢。続いて機関車が近くに来ると、「サイケイレイ」 頭を深々と下げ、頭を垂れます。前を通る列車の車輪が見えなくなると、「ナオレ」で頭を上げる。汽車は遙か彼方に消えていました。傍らに筵を敷いて正座していた国防婦人会のお婆さんたちからは「頭をあげたらアカンぇ。天子様、見たら目がつぶれるサカイニな」と言い聞かせられていました。
そう言えば、山本夏彦氏が「陛下のことは『天ちゃん』と呼んでいた」(「誰か『戦前』を知らないか」)と書いているのを見て首を傾げた記憶があります。山本氏は、私より15歳も年長者、戦争末期には20代後半~30歳の大人として経験されたのでしょう。大人はそうだったかも知れませんが、私たち10代前半の小学生は、絶対にそんなことは無かった、と断言できます。
 司馬遼太郎氏や山本夏彦氏が・・・僅か10歳前後の年齢差で、これほどまで戦争体験や「現人神」像が異なるのか? 疑うことを許されなかった「軍国少年」は、平和な時代になった時に、このオトナたちが語る戦争体験なるものになにがしかのいかがわしさを感じざるを得ません。
===以下省略===================

追記:私は、「---なにがしかのいかがわしさを感じざるを得ません。」という文章に同感です。藤山杜人

今日は天皇陛下が神と信じるように全国民が強要されることが二度とない事をお祈り致します。 藤山杜人