運命のいたずらで敗けた武士へ、人々は公平に接します。お釈迦さまの教えのように人間の儚さをよく知っているからです。関ヶ原で負けてしまった豊臣秀吉の家老であった宇喜多秀家のお墓を探しに八丈島へ行きました。昨年の冬の旅でした。
上の写真は1606年に八丈島へ流人として到着した宇喜多秀家の御墓です。現在でも今朝活けたような瑞々しい切り花が飾ってあります。毎日、花が供えられるのです。
秀家の回りにある縁者の小さな墓石の前にも花が供えてあります。いったい誰が供えるのでしょう?
秀家は秀吉の一字を貰った五大老の一人で朝鮮出兵で活躍し、帰国後は岡山城の大改修をし、備前・美作57万石の領主でしたが関ヶ原で敗将になってしまいました。八丈島へは長男の孫九郎や前田藩の医師、村田道珍斎や総数13名で島へ到着しました。流罪には正妻の豪姫以外の長男、医師、その他の付き人が許されたのです。その後の差し入れも許されました。
豪姫の実家は前田藩で、実子の居ない秀吉の養女になり、秀吉の重用する秀家の正妻になったのです。
前田藩は秀家存命中は勿論、子孫の宇喜多氏へ、2年毎に白米70俵と35両の現金、衣類、薬品、雑貨などを仕送りしていました。この仕送りは明治2年赦免になり東京へ帰るまで続きました。明治維新まで八丈島の宇喜多一族へ対する前田藩の支援へ私は頭が下がります。これが日本人の義理人情なのではないでしょうか。
宇喜多秀家は島の人々にとっては感謝、尊敬される存在でした。
宇喜多一族は次第に増え、島の重要な家族として人々に大切にされました。
秀家のお墓の前の切り花だけではありません。歴史民俗資料館には宇喜多秀吉の関連資料だけを展示している一つの部屋があります。
八丈島へは1917人の流人が来ました。粗暴犯の他に江戸幕府や仏教界での権力闘争に敗れた政治犯も多かったのです。これらの人々は知的レベルも高く、島の文化へ大きな貢献をしました。歴史民俗資料館発行の資料解説No.5には20人ほどの流人の名前を記し、島への貢献の内容を説明しています。カイコと、黄八丈と呼ばれる絹織物を伝えた人、サツマイモを伝えた流人、薩摩焼酎の作り方を伝えた人、詩歌管弦の指導をした風流な流人、などなどの名前を明記し感謝しています。中には大工の棟梁も居て、島でも弟子をとり、多くの大工を育てた人もいます。
これらを総称して「流人文化」といい、八丈島の人々は現在でも誇りにしています。
最後に、昨年、欠航のため島に予定より3日間、居続けた間に感じたことを記します。孤島に流されたような気分になります。すると周りの人々すべてが大切な存在として感じられるのです。大島や神津島くらい伊豆半島へ近いとそんな気分にはなりません。太平洋に浮かぶ孤島だからこそ人間が一人一人が大切に思えるのです。
八丈島のローカル文化は欠航という目に会って初めて少し実感したような気分になりました。
宇喜多秀家のお墓を探しに八丈島へ行きましたが、思いがけず船も飛行機も欠航になり3日程の島流しにあいました。そのお陰で知った離れ島の人々の心の温かさでした。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人
(下に宇喜多秀家も400年前に見た八丈島の暗く、寂しい風景の写真を付けます)