小説家、馬場駿と一緒に飲んだのは35年くらい前。深い森の奥の山荘の中、燃えさかる暖炉の前で、彼の兄をまじえて3人で飲んだ。彼らが手作りした暖炉は甲斐駒の御影石が埋め込んであった。歯切れの良い言葉で喋る馬場駿の才気が輝く、華やかな一夜であった。
彼はまだ小説を書いていなくて、当然馬場駿という筆名も持っていなかった。しかし彼の才能と情熱で何時かは大きな仕事をすると私は信じていた。
あの夜以来一度も会っていない。しかしその後、彼は伊東市に移り住んで岩漿文学会を創立し、小説も書き出した。処女出版は馬場駿の筆名で「小説大田道灌」を出している。その書評はこのブログでも2007年11月に掲載している。馬場駿著「小説大田道灌」を検索すると関連の情報が出て来る。
その彼が13年間も務めていた岩漿文学会の代表と編集長の役を後進へ譲ることになった。最近、郵送されて来た。「岩漿」第19号には、彼がこの文学会を創立したころの経緯や、この文学会の歴史について書いている。そしてその他に何故彼が馬場駿という筆名を持っているかという感動的な小文を書いている。
小説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡がいきいきと描いてある文なので以下に転載することにした。転載を許可してくれた彼へ感謝しつつ。
=======「筆名は心の師」、木内光夫============
二十年以上も前、仔細あって所謂都落ちし、伊豆の地で志とはかけ離れた生活を悶々として送っていたときのことだ。生涯の師と仰ぐ馬場駿氏が単身、私の勤務先の観光ホテルを訪れた。このとき師は、かつて私が在籍していた会社を資本金数十億円にまで大きくし、社長付常務取締役として八面六臂の活躍をしていた。秘書も不知のお忍び旅行だという。師は私と妻を夕餉に誘い、その場で泣かんばかりにして私の現状を嘆き憂えた。こんなところで何をしているのだと。
この師との出会いは劇的だった。この会社の横濱支社へ応募した際、私は身内の身元保証を得られなかった。三十五六まで夢を追い、赤貧洗うが如しのアルバイト生活を送っていた私の、言ってみれば身から出た錆。私は不採用という結果に甘んじるしかなかった。ところが後日、会社が突然再面接を申し入れてきた。当時会社顧問だった師が支社長へ指示をしたのだ。高校任意退学、文部省大検一回全科目合格、通信教育四年で大学の法科卒、以後法曹を目指して職業的には浪々。師は弾かれた履歴書群の中から私の一枚を拾い上げたのだ。一転私は採用、本来経済力が必要な保証人も、母が「私が産んだ」という証明をもってこれに代えて可、となった。調査はしたよと破顔一笑の師。M銀行支店長だったという師はある日、「僕は東大卒、京大卒いろいろ部下をもったが、君のようなタイプは初めてだ」と肩を叩いてくれた。その言葉の含意は今も不明だが、私は心でその言葉を受け止めた。
心の師が翌朝ホテルを去る際に至言をくれる。「大都会で金や地位欲しさに暗闘しているよりも、疲れ果てた人を癒す仕事の方が数段上かもしれないな。ゆうべは言い過ぎた。悪かった」。文通はその後も続いたが、師は難病に罹り終に帰らぬ人となった。私はホテルサービスという仕事から卑屈な想いを取り去った。師に認められた自分を思い出し、その事を支えにあらゆる屈辱に耐えた。処女出版「小説大田道灌」の筆名は馬場駿。自伝ではないが師に肯定された私の過去が入る連載小説「孤往記」も。あと一冊は筆名馬場駿でと、今は小説「疎石と虫」と向かい合う。(終り)
信心すれば災いが来ない。神社・仏閣へ参拝し家内安全を祈れば平穏な生活が続く。カトリックの日本人もミサの間にマリア様へ家内安全と平和な暮らしをお願いして祈る。
しかし突然、大地震、大津波が起き、3万人近い人々の命が奪われたのです。家も、漁船も、田畑もすべて洗い流されてしまったのです。跡にはガレキの山が茫々と広がり、粉雪だけが舞い降りているのです。それはそれは寒々した光景です。
それまで先祖代々、仏様を信心し、念仏を唱え祈り続けて来たのに、全然役に立たなかったのです。仏教も耶蘇教も全然役に立たなかったのです。天災地変に対してこんなにも無力だったのです。神をうらみ、仏を信じなくなるのは当然です。バカバカしくて宗教なんか考えたくもありません。私は一瞬そのような気分になりました。
しかし私は一方では、非常に感動しました。日本人は立派な仏教徒だったのです。お釈迦様の教えにしたがってあらゆる執着心から逃れていたのです。最愛の家族を失い、財産を根こそぎ流されてしまっても静かにしています。修羅場のなかでも秩序を守ったのです。悲しみに打ちひしがれても顔には出しません。微笑みさえ浮かべます。それは徹底した無常感の向こう側に見える微笑みです。
感動したのは世界中の人々です。あらゆる宗教や国境を越えて感動したのです。
下の写真では人々がお寺へお賽銭を上げて家内安全を祈りに行く光景です。ありふれた光景です。しかしこのような事で人々は「家内安全」だけでなく深いお釈迦様の教えにふれて居たのです。
1549年にザビエルが日本に伝えた耶蘇教も同じことです。450年以上も「主の平和」と祈り続けた来たのに東日本には平和どころか大津波が襲い修羅場になってしまったのです。イエス様は残酷過ぎます。
しかしキリスト教の各地の教会は直ちに被災地の救援活動を始めました。ボランティアが全国から被災地復旧へ馳せ参じました。これは別にキリスト教には関係ありません。明治維新以来、日本に広がった西洋の博愛精神はイエス様の「汝の隣人を愛せ」という教えに基づいています。赤十字活動もイエス様の十字架を赤く塗って旗印にしているのです。そんな事はどうでも良いのですが。
3月11日の大震災の後、始めての日曜日にミサへ行きました。神父様が、「大震災で亡くなられた全ての人々へ神様の慈しみがありますように。限り無い慈しみが有りますように」と真剣に祈っていました。それを聞いて私は少し元気になりました。
「大震災・大津波へは仏教もキリスト教も全然役に立たない、いや役に立った!」、この問題は議論するのではなく心の中で静かに考える問題なのです。そして祈るのです。
きょうの祈りを下に書きます。そして、ご一緒にお祈りして頂ければ嬉しく思います。
亡くなった全ての人々を、お釈迦様が浄土へお迎えくださいますように!
そして亡くなった全ての人々の上に神様の限り無いいつくしみがありますように。