後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

なんじゃもんじゃの木・・・めいこさんのしみじみするブログをご紹介します

2011年06月08日 | インポート

とうとう今年も、代々木の絵画館の前にある、なんじゃもんじゃの木を見に行かなかった。
三年前、同じ沿線に住む小学校の友人、K さんに誘われて花の咲いている五月、この木を、見に行った。大きく広がって伸びた木には、こまかい白い花がかたまりとなってふんわりとやさしく咲いていた。私は初めてみた花だが、よく手入れされた広い公園の景色に似合い、上品な落ち着いた雰囲気がただよっていた。

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久し振りに絵画館に寄ってから、案内板に添って歩くと、神宮球場があった。子供の頃、母に連れられて六大学野球をよく見にきたのはここだったのだと、久し振りにその頃の元気な学生達の応援歌や歓声を思い出した。

 Aさんのお父さまは、昔、日赤の医者で、戦前、朝鮮にたびたび渡って、仕事をされていたが、其の帰り、朝鮮の高官からこの木を頂いて、実家の庭に植えて大事にしていたら、たちまち大きくなったそうだ。けれど空襲で実家と一緒にこの木が焼けてしまった。Aさんはこの木にこだわり、時々、絵画館前に花を見に来ていたという。一人ではつまらないとこの年、私が誘われた。その日、食事をして、一日遊び、来年も又来ましょう、と約束した。

 去年は丁度私が体調をくずした。今年は私が早めにAさんを誘ったが、Aさんは駅まで歩くのがやっとになっていた。この一年、電車に乗ったことがないというので一緒にゆくのは無理だ。私の年になると一年の体調の変化が大きい。

私には何の関係も無い木だが、この絵画館の前の、なんじゃもんじゃの木は、印象が深く、時季になると、私も思い出す木となった。

http://www.geocities.jp/hyoutannjima0/index.htm


今日の散歩・・・府中、多摩川ぞいを歩く

2011年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は、午前中は雨。昼ごろから晴れ上がりました。府中の郷土の森公園を散歩して、さらに多摩川沿いの土手に上がり、少し散歩しました。多摩川がゆったりと流れ、周りの草木の緑も深い色になっています。初夏のように汗ばむ気温でした。のんびりした風景写真をお楽しみ下さい。

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国際原子力機構へ出す政府の事故調査報告を非難する、批判する

2011年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム

今日の新聞に、国際原子力機構へ提出した事故調査報告書がかなり詳しく掲載されています。日本政府が6月20日に機構の閣僚級会議で報告する予定です。

まず第一に何故このような報告を国民へ第一に報告しなかったのでしょうか?国民を無視して、いきなり国際機関へ提出してしまったのです。被害を受けた人々へまず報告して、一週間くらいは意見を聞く時間をおいてからIAEAへ提出すべきでした。

さて、その内容です。いかにも優等生の答案のように総花的で、いたれり尽くせりで、立派な内容です。非の打ちどころがありません。

しかし、欠点は何時から、何処の原発施設の改造を始めるのか?どのような改造工事を何時までに完了するのかが具体的に一切書いてありません。

原発の設計から見直すと書いてありますが、それは今後新たに作る原発だけを設計変更し、既存の54基の原発は改造するのか、しないのか一切書いてありません。

この総花的報告書を各電力会社へ送って、震災対策をしなさいと強要するだけのようです。具体的な改造の優先順位までを書いていません。改造の費用が比較的少なくて効果が大きいのは、簡単に積み上げた防潮堤です。

その次は使用済み核燃料棒の貯蔵プールを独立した別の建屋に移動することです。そして循環冷却が止まっても多量の水が落下、冷却できるように改造することです。

第三の改造は、現在の原子炉の炉心圧力容器や原子炉格納容器には手を加えず、水素ガスが多量に発生した場合の水素爆発防止装置の追加設置です。

建屋の天井が大きく開く装置を付け、電源喪失の場合には扉の自分の重さで落下し、大きく開く天井扉を付けるのです。電気のある間は電磁石の杭が天井扉を支え、電気が止まれば電磁石の杭が自然に落ちるようにすれば良いのです。多少の放射能の空中放散は許しても、水素爆発だけは防ぐべきです。建屋の爆発だけを防止出来れば、配管系統が破壊されないのでその後の循環冷却が容易になります。勿論、ベントも自動ベントに改造し、炉内圧力が一定以上になったら放射能を含む炉心ガスを空中へ放出すれば良いのです。近隣の5km以内の住民は災害発生と同時に緊急避難する訓練をしておきます。

昔から日本の武士は、「肉を切らせて、骨を切らせない」という心構えを持っていました。放射能を放出させまいとして、大事故へ発展したのが今回の事故ではないでしょうか?

今回の政府の事故調査報告書は総花的過ぎて、一体実行が可能なのか?どの項目から順次改造して行くのか全く書いてありません。

設計変更するなら何故、現在の原発をアメリカから輸入するとき地震・津波に対して設計を変更しなかったのでしょうか?その事こそが人災と言われる所以なのです。

今回の政府の事故調査報告書には以上のようないろいろな欠点があると思います。みなさまのご意見を頂ければ嬉しく存じます。


ふるさと仙台にまつわるエピソード(3)思い出のなかの故郷を探す旅

2011年06月08日 | インポート

仙台は伊達政宗が1600年前後に築いた城下町です。青葉城の大手門から真っ直ぐ東へ伸びる通りは広瀬川の大橋を渡ったところから、東端の現在の仙台駅までを大町通りと言います。

その大町通りの途中を直角に奥州街道が横切っていて、その四つ角を「芭蕉の辻」といいます。江戸時代は有名な繁華街で、豪商の店が集まっていました。その奥州街道の部分を国分町といって賑やかな商店街でした。

明治維新で仙台藩が解体された後も「芭蕉の辻」や国分町の賑わいは続きました。しかし、大正、昭和と時が流れるに従って、国分町はしだいに寂れ、それと並行して南北に走る「東一番丁」が繁華街となったのです。

その通りに面して三越百貨店が出来、藤崎百貨店が出来、仙台一番の商店街になりました。

私の育った頃はこの「東一番丁」とそれと交叉する「大町通り」へよく遊びに行ったものです。ついでに大人たちからよく聞いた「芭蕉の辻」や「国分町」へも足をのばし意味も無く歩きまわったものです。

仙台を出て東京に暮らすようになって52年。甘い追憶の中のふるさと、仙台を探す旅にでました。昨年の10月の事です。父母や親戚の墓参という目的もありました。以下はその時の紀行文です。

@ふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまった

仙台では、思い出をたどりながら町々を歩き回りました。

高いビルが沢山立っています。見知らぬ白い街になっていました。大きな道路には沢山の車が情け容赦なく疾走しています。

道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。

繁華街の一番丁の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらない お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンだけが存続していましたが、あとは全て消えてしまったのです。茫々50年。私の追憶の中のふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまいました。

消えてしまったふるさとの街を歩く淋しさ、寂寥感が秋の夜風で身に沁みました。

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@子供の頃遊んだ秘密の場所が観光客に奪われてしまった

昔の家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山のそばにあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。戦争で忙しい大人達はめったに足を向けない森閑とした場所です。

そのうち戦災で廟が焼失しました。その跡に粗末な白木のお堂が立っているだけでした。そこへ独り登ると、そこは私の天下です。隠れ家です。誰にも拘束されない自由の空間でした。

遠方で鳴くセミの声を聞くだけです。ゆっくり石段を降り、下馬の明るい広場へ出ます。その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の聖地でした。

それが先日行ったら金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。仙台観光の目玉らしく観光客がゾロゾロと歩いています。私は何故か中に入る勇気が出ません。幼少の頃の私の大切な場所を観光客に奪われてしまったのです。そんな感じ方はまったく理不尽ですが、なにかガッカリしたような気分になりました。家内が一人の観光客になって楽しそうに見物しています。

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仙台へ観光客が沢山来てくれることに感謝しています。でも何故か私の心は悲しみが広がっています。

@しかし、自然の景色だけは変わらない

昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。笹蒲鉾以外は全部消えてしまいました。最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。老人の私は牛タンが名物だとは信じられません。

牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か嬉しくありません。牛タン焼は美味しいものです。それは知っています。しかし仙台では絶対に食べないようにしています。まったく理不尽ですが仙台が牛タンを売り物にしていることに少しばかり腹を立てているのです。

日本全国各地の名物が年月と共に変わって行きます。それで地域輿しが出来ることは大変良い事です。大歓迎です。しかし仙台の牛タンだけはなんとなく困ったものと感じています。私は、「理不尽の字」に手足を付けたような老人なのです。

仙台へ行く度に昔の名物や面影がドンドン消えて行きます。もう私のふるさとは完全に消えてしまったようです。

しかし街々を囲む山々の自然は変わりません。

人々は忙しく変わって行きます。輪廻転生です。でも自然の景観は何時までも同じです。それを見るとやっぱりふるさとは良い。仙台は良い所だと思います。

下に仙台城から見た政宗の廟所のある経ケ峯の写真と評定河原の一銭橋の上から見た広瀬川の写真を示します。

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皆様のふるさとは変わったでしょうか?どのようなふるさとでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人