聖武天皇の詔で741年に建てられはじめた武蔵国分寺は、1333年鎌倉幕府軍と新田義貞達の連合軍との「分倍河原の戦い」で焼かれてしまいました。
華やかな彩色が施された金堂、講堂、経堂、僧堂、七重の塔、鐘楼、中門、南門の全てが夢か幻のように姿を消してしまったのです。それ以後再建されず、田畑になってしまったのです。礎石すら農民に持ち去られ、あちこちに散逸してしまったのです。
それが623年後の1956年(昭和31年)から断続的に行われた発掘調査で数多くの瓦や道具類が出土し、お寺の規模や場所が次第に明らかになって来ました。
散逸した礎石も近隣の農地から集められ元の場所へ据えられたのです。礎石のあった場所は土中に深く玉石が埋められ基礎工事が出来ていたので分かります。
武蔵国分寺は623年間、田畑の中に眠り続けていたのです。それが学術調査により何処に存在し、どの程度の規模かが判明したのです。建物群の配置も分かりました。
武蔵国分寺のあった場所には礎石以外は何も無い草地が広がっているだけです。
近くの資料館に、発掘された瓦やレンガや土器、土師器、生活道具など展示しています。新しい「国分寺」と言う名前のお寺も北側にあります。
お鷹の道という湧水の美しい小道もあります。JR中央線の西国分寺駅から国分寺駅までの数キロの道もあります。とても良い散歩道ですので是非おいで下さい。