後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

大日本帝国海軍のゼロ式戦闘機の模型を湖岸で独り楽しむ趣味

2011年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

ゼロ式戦闘機は三菱重工が開発し、1939年に初飛行しました。終戦まで10430機も製造され、日本の花形戦闘機として活躍しました。開戦、初期はアメリカ軍の戦闘機より性能が勝っていて、空中戦ではよくアメリカの戦闘機を打ち落としていました。しかしアメリカの性能改良のせいで、戦争の中期からは空中戦で負けることが多くなったのです。

しかし、旋回能力や攻撃力が良く、航続距離も長く、当時の各国の戦闘機に比べ非常に優れた戦闘機だったのです。しかし装甲板が薄く、機銃攻撃で簡単に落とされる弱点もあり、戦争の後半ではアメリカ空軍に制空権を奪われてしまったのです。

ゼロ式戦闘機は当時の日本の技術力の総力を注いだ飛行機でした。それだけにゼロ戦は敗戦後も日本人にいろいろな意味で大切にされて来ました。

今日、山中湖で下の写真のようにフロートを付けた水上ゼロ式戦闘機の模型を楽しんでいる人に会いました。ゼロ戦が懐かしくなりそばに寄り、写真を撮らせて頂きました。ご本人は三菱重工の相模原工場で長く船舶用のエンジンを製造して来たそうです。ゼロ戦の技術的素晴らしさを先輩から聞いていたに違いありません。模型飛行機の趣味は40歳位から始め、定年後に本格的に打ち込むようになったそうです。

飛ぶ様子を見たいと思いましたが、主フロートの付け根が折れていて飛ばせません。先程、着水したとき折れたそうです。

狭い日本でも山中湖まで来ると、人が誰も居ない岸辺が広がっているのです。観光客の来ない東北岸です。知る人ぞ知るというような秘密の浜辺です。のんびり模型飛行機の趣味について話を聞いて帰ってきました。ゼロ式戦闘機を検索すると実にいろいろな情報が出て来ます。日本人がこの戦闘機を現在でも大切に思っているのですね。(終り)

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今日の散歩・・・富士山の写真を撮りに行く

2011年06月22日 | 写真

今日は朝から快晴で、夏日になりました。高気圧で空気が乾燥しているので体が独りで動きます。元気が湧いて来ます。そこで車を駆って富士山の写真を撮りに行きました。家内は文学の会があり、一緒出来ませんでした。

中央高速を大月から河口湖方面へ曲がってトンネルをくぐると富士山が見えて来ます。そのまま山中湖まで行って、岸をあちこち移動して富士山の構図を考えて撮りました。その後、花の都公園で黄色の花の群落を手前にして富士山を撮りました。忍野に回って、カヤぶき屋根の農家の向こうの富士山を撮りました。

このように4枚の写真を掲載して見ると、どれもが絵ハガキのようで平凡な作品であると気がつきます。綺麗な絵画は藝術的でないと言いますが、今回の4枚はただ景色が良いだけの写真になってしまい申し訳ありません。それはそれとして、湖岸の林の中で春蝉がしきりに鳴いていました。北海道の旅で春蝉の声を聞き、感動した時のことを思い出して大変楽しい、小さな旅になりました。

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大震災は起きた・・・しかし世界平和が日本を覆う、復興だ!

2011年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真のように昨日の夕方、夏雲が出ていました。今朝は今年、初めての夏空が広がっています。

3月11日に日本では大地震と大津波、そして福島の4つの原発の爆発による放射能飛散という大事故が重なりました。家も職も失った人々がまだ10万人も避難生活をしています。家も職場も失い、不安な生活を続けているのです。

しかしここで、少し広い視野で世界の情勢を考えると元気が出て来ます。戦争の無い平和な世の中が続きそうです。平和が日本を覆い、数多くの外国の国々は日本の復興を物心両面から暖かく支援してくれています。

その一番大きな原因は第二次大戦後から1989年まで続いたアメリカとソ連の厳しい冷戦が終わった事によると思います。それは厳しい冷戦で、アメリカと安保条約を結んでいた日本はそのはざまで厳しい時代を過ごしてきたのです。

したがってこの大震災の復興の時期にあたって、もう一度、米ソの冷戦の終了の意義を考え直して見たいと思います。

それは復興への力強い心の準備になると私は信じているからです。

1989年のベリリンの壁の崩壊で、1945年の第二次世界大戦終了後から44年間続いた冷戦がアメリカ陣営の勝利で終わったのです。日本の周辺ではなにも変化が無く、北方4島は相変わらずロシアの領土のままです。従って日本人にとっては冷戦の終了はあまり大きな事件と思いません。しかし、ヨーロッパの東部ではロシアは衛星国を失い、ロシアの軍事防衛線が大きく東へ退いたのです。

以下の地図のようにポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアはNATO軍事同盟に加わり、アメリカ陣営になってしまいました。更にその東のベラルーシとウクライナも独立してロシアの衛星国から脱したのです。その結果、ヨーロッパの東部とロシア西部の国境がとても大きく塗り替えられたのです。是非、下記のURLをクリックして新しい国々をご覧下さい。http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=56.57975141889055&lon=22.006962946169054&z=6&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=52.004151275936&hlon=19.007695368044&layout=&ei=utf-8&p=

その結果として、ポーランド北部とリトアニアの間に残ったロシア領のカリーニングラードが本国から切り離されて飛び地になったのです。この飛び地はロシアの軍事要塞として重要な意味があります。

それにしてもこの飛び地は不思議な存在です。そこで少し調べて見ました。歴史的には12世紀後半にカトリックの正式な修道組織として公認された「ドイツ騎士修道会」が布教と領土を求め東ヨーロッパへ侵入したことが原因になっているようです。ドイツ騎士修道会が作った国がプロイセンであり、現在のカリーニングラード付近を東プロイセンと呼ばれていました。第二次大戦の始まる前はドイツの飛び地でした

ロシアがそれを奪ったので戦後はロシアの領地になったのです。

ベリリンの壁崩壊の後で、エリツェン大統領がカリーニングラードをポーランドへ返還しようとしました。しかしポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアはNATO軍事同盟に加わり、アメリカ陣営へ入ろうとしている情報を入手し、ポーランドへの返還を中止し、軍事要塞を自国の防衛の為に保持することになったそうです。

丁度、その頃、北方4島の2島をエリツェン大統領は日本へ返還しようとして橋本首相と交渉をしていました。それが突然中止になったのです。

何故か?私の個人的な想像を記します。ポーランドとエストニア、ラトビア、リトアニアがNATO軍事同盟へ加盟する動きをしたのでロシアは急に警戒を強めたに違いありません。当然、北方2島返還を止め、軍事基地設置を計画したと信じています北方4島返還はロシアとNATO同盟軍の動きと密接に関係していると思います。

日本では「北方4島返還」と空しく叫ぶ人が多いのも事実です。しかしそれはロシアの西側の東ヨーロッパで何が起きているかを考えないと無駄な叫びになります。

それよりも、大震災からの復興に心を注ぎ、努力することがもっと、もっと重要な事と私は信じています。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

下の写真はエストニアの首都リガの風景です。出典は、http://www.tripadvisor.jp/Tourism-g274967-Riga-Vacations.html です。

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