仙台味噌は米麹と大豆を使い風味豊かな赤味噌です。塩味をきかせた辛口の味噌で、炊きたてのご飯でオニギリを作り、仙台味噌を塗って、直火で焼くと香ばしい焼きオニギリが出来ます。江戸時代は仙台藩の御用で製造していましたが現在は宮城県いちえんで製造され、東京のスーパーでも簡単に入手出来ます。私の家は仙台味噌を使い続けています。
そもそも仙台味噌は、仙台藩の味噌御用を勤めていた真壁屋市衛門が寛永3年(1626年)に現在の仙台市の国分町に、「仙台味噌」の看板を上げたのが始まりと言われています。その後、伊達政宗の指示により城下に御塩噌蔵が設けられ、真壁屋がその醸造と運営に当たりました。真壁屋は100石の扶持を与えられ、武士として古木氏を名乗っていました。
第二代藩主の伊達忠宗の頃から、江戸の大井にあった仙台藩下屋敷においても仙台の真壁屋と同じ醸造方法で仙台味噌が作られていました。江戸勤番の藩士へ配給していましたが、余った分を江戸の味噌問屋へ払い下げていたのです。その結果、江戸では仙台味噌の名が広まっていました。
幕末の戊辰戦争で仙台藩は幕府側につき、負けてしまいます。城も焼かれ、唯一、大手門だけが残りました。明治政府によって仙台藩は解体され、仙台味噌も消えて行く運命にありました。それを救ってくれたのが八木久兵衛という人でした。
紆余曲折の末、明治18年の頃、紅久という豪商の四代目、八木久兵衛ともう一人が仙台藩の味噌醸造業を東京の大井と仙台の両方で引き継いだのです。その後、東京での仙台味噌醸造は四代目八木久兵衛の弟の八木忠助さんに任せ、自分は仙台に大きな味噌醸造工場を作り、大々的に仙台味噌を売り出したのです。その醸造工場のお陰で仙台味噌は江戸時代より有名になったのです。
一方、東京の仙台味噌は現在に至るまで醸造が続きます。現在は八木忠一郎さんが社主で、宮内庁御用達の店にもなっているそうです。
仙台味噌は現在は宮城県のあちこちで作られています。東京のスーパーでも簡単に入手出来ます。まだの方は是非一度使ってみて下さい。美味しいと思います。
上で出て来た四代目八木久兵衛は明治時代の仙台の代表的な財界人で、仙台市の八木山の所有主として町の発展に大きな貢献をした人です。彼と仙台市とのかかわりについてはいろいろ面白いエピソードがあるので又続編でご紹介したいと思います。
文字通り、手前味噌の故郷の味噌自慢でした。失礼いたしました。(続く)
誰でも年をとります。老境にいたると自分の人生の来し方をいろいろ思い出して反省することが多いのではないでしょうか?勿論、自分の人生は間違っていなかったと自画自賛し、意気軒昂のまま旅立つ人もいます。
私の職業は大学に勤めながら実験科学の研究をし、成果を論文に書き、国内と外国の学会誌へ発表するという仕事でした。随分、数多くの論文を発表したと満足していました。
このたび福島原発事故のせいで、昔お会いした古川和男の電源喪失でも爆発しないトリウム熔融塩原発炉の文書を読みました。
このタイプの原子炉については昔、古川さんから話を聞いたことがありました。その時の主流は沸騰水型原発炉でした。成功の見込みも無いマイナーな、熔融塩原発炉を本気で研究している古川さんを何となく困ったものだと思ったものでした。
困った理由は2つです。あんなに優秀な研究者の才能を使い道も分からない熔融塩原発炉へ注ぐのは無駄だと思ったからです。もう一つの理由はマイナーな脇道の研究をする人を私はなんとなくウサン臭く思っていたからです。
私の研究の姿勢はその分野の主流の研究テーマを取上げるという主流主義でした。別な言葉で言えばその分野の流行のテーマを追っていたのです。流行のテーマですから多くの研究者が集まります。要するに華やかなのです。
古川さんのテーマは熔融塩の物理と化学という地味なものでした。熔融塩とは食塩やカルシューム弗化物を加熱して熔解し、液体にしたものです。液体になるとナトリュームや塩素はイオン化して自由に動き回ります。このような液体は濃厚なプラスイオンとマイナスイオンの粒子だけで出来て居ます。その液体構造を古川さんが真面目に研究していたことを思い出しました。兎に角、地味なテーマなのです。
そのような研究の姿勢と信念の延長にトリウム熔融塩原発炉があるのです。
先日、このブログに「原爆へつながる原子力発電へ警告する古川氏を紹介する」という題目で記事を掲載しました。掲載してから古川さんへご連絡しました。そうしたらとても丁寧な言葉使いで、その題目は勘弁して下さいという意味のメールが来ました。・・・「私は原発炉の評論をするのではなく、安全な原発を実際に作る事業をしています。評論と事業推進の違いをどうぞご理解下さい」・・・
私は自分の姿勢、大げさに言えば自分の人生観が間違っていたような気分になっています。悲しいです。それは深い悲しみです。
一般の実社会の会社でも主力事業へのみへ参加し、主流をあるこうとする人もいます。その一方で、脇道や縁の下の支えになるような地味な仕事だけを真面目にする人もいます。いろいろな人が居るからこそその会社は隆盛するのです。しかし停年になって引退し何年かたったとき、どちらの人が幸福感に包まれるでしょうか?
そんな事を考える今日、この頃です。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます、藤山杜人