・・・石川五右衛門の名をはじめて耳にしたのは遥か幼い日のことだ。母の実家で祖母と風呂に入ったら釜底が熱い。「これは大泥棒石川五右衛門を釜ゆでにした五右衛門風呂じゃもの」。ぞっとした。・・・磯田道史さんの「五右衛門 反体制の熱弁」と題する記事の書き出しの文章です。流れるような文章の上、祖母と孫が風呂に一緒に入っている幸せな光景が短い文でいきいきと描いてあります。この文章に誘われて、終わりまで読みました。私が幼少の頃、兵庫県の祖父が住職をしていたお寺の五右衛門風呂を思いだしながら読みました。
本当に五右衛門は釜ゆでにされたのか?一緒に処刑された家族や手下は何人だったのか?何故か石川五右衛門に関する本は禁書になっています。不思議に思った磯田道史さんは根気よく調べます。そして江戸時代の禁書の「賊禁秘誠談」の写本を丁寧に探しました。写本にはいろいろ沢山あって真実から遠い内容のものも多いからです。
そしてついに1669年(寛文7年)の写本が保管されている所を知るのです。寛文時代は五右衛門のの死後70年程です。その内容と1802年(享和2年)の写本とつきあわせて見ると、何故、「賊禁秘誠談」が江戸時代に禁書になっていたかが明らかになったのです。
謎を明かすのは磯田道史さんに悪いので止めます。今朝の読売新聞の24ページ目にあります。尚、磯田道史さんは映画になった、「武士の家計簿」の著者です。権力者の歴史ではなく、時代、時代に生きた一般の人々の生活を研究する歴史学者です。
もう一つの面白い記事は読売の文化部の岡本公樹さんが書いた「五畿七道 大揺れ 三連動か」と題する記事です。
869年の貞観地震に続いて、関東地震、火山の噴火があり、そして887年(仁和3年)には平安京(京都市)を大地震が襲ったのです。京都だけでなく日本全国の五畿七道が大揺れした大規模地震だったのです。時の天皇、光孝天皇は皇居から逃げ出し、庭にご在所を作り、そこで仕事をしたのです。家屋や役所が倒壊し、多数が圧死し、津波が各所を襲ったのです。特に大阪湾の北岸は大きな被災地になったのです。その後の史実に記録されている大地震を紹介しています。そして貞観地震に関する明治時代の吉田東伍さんの研究発表の公開URLを紹介しています。
早速、そのhttp://wind.ap.teacup.com/togo/100.html を開いてみました。大津波が陸奥国の多賀城の城下まで襲い人家が押し流され、死者多数という研究発表文を読む事ができました。
仙台に生まれ育った私は多賀城は塩釜港よりは随分と内陸に入った所にあることを知っています。今回の大津波でも多賀城一帯は津波に襲われたのです。今回の大津波の襲った地域は、実にこの貞観津波の襲った地域と非常によく一致しているのです。
このように大地震と大津波の明確な記録が沢山あるのに何故、原子力発電所建設ではそれを無視したのでしょうか?原因はいろいろあるでしょうが、一つの大きなものに明治維新以来の日本の学校教育にあると思います。理科と文学、そして歴史学を別々に教えたからです。その上、大学では理系の人間と文系の人間を分けて、差別したからです。理系の人間は文系の人を見下していたのです。原発を作った日立や東芝の技術者は歴史学者を見下げて、無視していたのです。実は昔の私はそうでした。文系の人を見下していたのです。
しかし原発事故が起きてみると技術者の歴史の勉強不足が明らかになったのです。歴史を無視すると又大災害が起きます。そんな事を考えさせるのが岡本公樹さんが書いた「五畿七道 大揺れ 三連動か」と題する記事です。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
下に現在の多賀城跡から仙台平野を見た写真を掲載します。出典は上に示したURLです。