後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

アメリカとイスラム圏の戦争の原因(一)ヒットラーのユダヤ人大量虐殺の意味

2011年06月19日 | インポート

年老いて来ると自分の利己心から解放されて、20世紀の世界で何故いろいろな大戦争が起き、それが原因でイスラム圏とアメリカの果てしない戦争が現在でも続いているかが明快に分かります。特に私はカトリック教なのでヒットラーのずるいやり方と、それに賛同したドイツ人の気持ちが分かるのです。そして中近東のパレスチナ人の土地に無理やりユダヤ教のイスラエル国家をイギリスやアメリカが作ったか?その気持ちが分かるのです。しかし全ては大間違いでした。その間違いが、アメリカとイスラム圏の果てしない戦争の原因になっているのです。

人間の悲しい性(さが)です。明日からシリーズ記事としてこの問題を取上げて行きたいと思います。この短文はその予告編です。乞御期待。


ビール工場見学の勧め

2011年06月19日 | 写真

先に20分だけ見学すると、中ジョッキ3杯頂けます。工場で出来たてのビールなので美味です。ちょっとしたオツマミもついていました。先日、伊豆旅行の途中。小田原の北にあるアサヒビール神奈川工場です。下に写真をお送りいたします。

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私の宗教にかかわる遍歴(1)祖父が田舎の寺の住職でした

2011年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

宗教を信じる人、信じない人、どちらでも良いと思います。宗教を信じない人は、宗教的雰囲気や風習にふれるチャンスが無かっただけなのかも知れません。

宗教は所詮、伝承と生活習慣の一部として子々孫々つたわって行くもののようです。私は現在、カトリックの教会へ通っています。洗礼も受けました。何故、カトリックになったかを時々考えています。

人生の危機に遭遇して、それがキッカケになって入信したわけではありません。なんとなく洗礼を受けいたのです。いろいろ考えると幼児体験が非常に重要だったと思っています。

祖父は兵庫県の山里の曹洞宗のお寺の住職でした。梅田駅から出ている阪急電車を途中で、能勢の妙見さんへ行く支線へ乗り換え淋しい駅で下ります。そこからは予約しておいた箱型の黒いタクシーで山里の集落まで行きました。毎年、夏になると、仙台の大学で化学の研究をしていた父が一家5人で帰省していました。

お寺は高台の石垣の上にありました。水田の広がる30軒位の集落を見降ろす高台に石垣を築き、質素な山門と鐘楼と本堂と客殿からなっていました。全てが小さな作りです。それらが石垣の上にあり、白壁の塀にグルリと囲まれています。小さな、小さなお伽のお城のような感じです。

毎朝、祖父が袈裟を着て、本堂に坐って読経します。孫の我々も坐って簡単なお経を唱えます。それが終わってからお粥の朝ごはんです。

お寺での夏の数週間の生活は珍しい事の連続でした。お盆には和尚さんが10人位、色鮮やかな袈裟を着て、輪になって読経するのです。施餓鬼供養と言っていたようです。里人が神妙な顔で回りに坐っています。我々も坐って見ていました。

このお寺の生活の全ては、30軒位の里人によって支えられていたのです。秋になると白壁の小さな蔵の中に1年分の米俵が積み上げられます。野菜は毎日のように里の女性がお寺に持って来ます。裏玄関に坐り込んで祖母と関西弁で話しこんでから帰ります。祖母は大黒さんと呼ばれ、里人に好かれていたようです。下の田圃の向こう側にある小川に沢ガニをよく獲りにいったものです。里人に会うと丁寧に挨拶をしてくれ、「大黒さんは元気ですか?宜しく言って下さい」という意味の事を関西弁で言います。住職の話が出ないのです。カンシャク持ちの祖父は敬遠されていたのかも知れません。

老年になった現在考えてみると大黒さんがみんなに好かれていた事がお寺の生活にとって重要な事だったと思い至ります。

しかしそれとは関係なく、住職だった祖父の色鮮やかな袈裟姿や読経の声が心に焼き付いたのです。それは幼い私が経験した強烈な宗教的体験として、のちのちの私の宗教的遍歴を支えていたのだと思います。

その佛教的な幼児体験がいつの間にかカトリックへと繋がったのも不思議なことです。その経緯はゆっくりと続編で書いて行きたいと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人