宗教を信じる人、信じない人、どちらでも良いと思います。宗教を信じない人は、宗教的雰囲気や風習にふれるチャンスが無かっただけなのかも知れません。
宗教は所詮、伝承と生活習慣の一部として子々孫々つたわって行くもののようです。私は現在、カトリックの教会へ通っています。洗礼も受けました。何故、カトリックになったかを時々考えています。
人生の危機に遭遇して、それがキッカケになって入信したわけではありません。なんとなく洗礼を受けいたのです。いろいろ考えると幼児体験が非常に重要だったと思っています。
祖父は兵庫県の山里の曹洞宗のお寺の住職でした。梅田駅から出ている阪急電車を途中で、能勢の妙見さんへ行く支線へ乗り換え淋しい駅で下ります。そこからは予約しておいた箱型の黒いタクシーで山里の集落まで行きました。毎年、夏になると、仙台の大学で化学の研究をしていた父が一家5人で帰省していました。
お寺は高台の石垣の上にありました。水田の広がる30軒位の集落を見降ろす高台に石垣を築き、質素な山門と鐘楼と本堂と客殿からなっていました。全てが小さな作りです。それらが石垣の上にあり、白壁の塀にグルリと囲まれています。小さな、小さなお伽のお城のような感じです。
毎朝、祖父が袈裟を着て、本堂に坐って読経します。孫の我々も坐って簡単なお経を唱えます。それが終わってからお粥の朝ごはんです。
お寺での夏の数週間の生活は珍しい事の連続でした。お盆には和尚さんが10人位、色鮮やかな袈裟を着て、輪になって読経するのです。施餓鬼供養と言っていたようです。里人が神妙な顔で回りに坐っています。我々も坐って見ていました。
このお寺の生活の全ては、30軒位の里人によって支えられていたのです。秋になると白壁の小さな蔵の中に1年分の米俵が積み上げられます。野菜は毎日のように里の女性がお寺に持って来ます。裏玄関に坐り込んで祖母と関西弁で話しこんでから帰ります。祖母は大黒さんと呼ばれ、里人に好かれていたようです。下の田圃の向こう側にある小川に沢ガニをよく獲りにいったものです。里人に会うと丁寧に挨拶をしてくれ、「大黒さんは元気ですか?宜しく言って下さい」という意味の事を関西弁で言います。住職の話が出ないのです。カンシャク持ちの祖父は敬遠されていたのかも知れません。
老年になった現在考えてみると大黒さんがみんなに好かれていた事がお寺の生活にとって重要な事だったと思い至ります。
しかしそれとは関係なく、住職だった祖父の色鮮やかな袈裟姿や読経の声が心に焼き付いたのです。それは幼い私が経験した強烈な宗教的体験として、のちのちの私の宗教的遍歴を支えていたのだと思います。
その佛教的な幼児体験がいつの間にかカトリックへと繋がったのも不思議なことです。その経緯はゆっくりと続編で書いて行きたいと思います。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人