日本のお寺で読まれるお経は唐の玄奘三蔵法師がインドから持ち帰ったものです。ですから中国と韓国と日本のお寺で読まれる経典は同じです。お釈迦様の教えは国境と関係なく大切にされています。
これと同じようにイエス様の教えたキリスト教は世界中で同じような祈りが唱えられています。
特にカトリックという宗派ではローマのバチカン法王庁が決める礼拝の式次第と祈りの言葉が世界中で共通に使われているのです。ですから外国へ行ったとき行きずりのカトリックの教会に飛び込んで、ミサに参加しても式次第が同じなので良く理解出来るのです。祈りの言葉も全く同じです。人種や文化が違っても祈りの言葉が同じなのです。人類は皆同じ家族で、この青い惑星の上に一緒に住んでいるという実感が持てます。
私が行っているカトリック小金井教会にはいろいろな国の人が来るので、式次第と祈りの言葉を6つの言語表示で並べて書いた冊子が置いてあります。日本語と、そのローマ字表記、そして英語、スペイン語、ポルトガル語、それにタカログ語です。東京には中南米の人とフィリッピンの人が多いので、その人々の為に置いてある冊子です。
この冊子のなかで私が一番大切に思う祈りは、「主の祈り」です。イエス様が2000年前に神に祈った時唱えた祈りを、そのまま現在の信者達が唱えるのです。日本語と英語で示すと以下のようになります。
「主の祈り」
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にもおこなわれますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるしします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
LORD'S PRAYER
Our Father in heaven,holy be your name,
your kingdom come,
your will be done on earth, as in heaven.
Give us today our daily bread.
Forgive us our sins as we forgive those who sin against us.
Do not bring us to the test but delover us from evil.
この「主の祈り」は弟子達がイエス様へ、「どのように神様へお祈りしたら良いのですか?」と聞いた時、イエス様が教えてくれた言葉なのです。祈りの内容は全能の神様が天と地上をおまねく治められますようにという前半分の部分と自分達へ毎日の糧を下さり、罪を許してくれるようにという後半分の2つの部分からなっています。
私たちが神社で、神様へ家内安全、商売繁盛を祈りますがそのような事は自分の利害に関する事なので神へ祈ってはいけません。そのような祈りはカトリックではマリア様へお願いすることになっています。当然、戦争の時に自分達が勝つようにと神に祈ってはいけません。勝っても負けても私達へ神様の豊かなお慈しみがありますようにと祈ります。
以前、神田のニコライ堂でロシア正教の流れをくむ日本正教会の礼拝に出た事がありました。その礼拝の間に平成天皇のご健康を祈る言葉が出て来た事に驚きました。日露戦争の間も明治天皇のために祈っていたのです。
宗教と政治権力者の関係はなかなか簡単に割り切れるような単純な問題ではないのかもしれません。
つまらない話を書いて失礼致しました。終ります。
江戸時代の全国の城下町を繁栄させたのは商人、職人などの町民たちでした。武士たちは町の中心の良い場所に広大な武家屋敷を構え、住んでいましたが生産活動や経済活動はしない消費階級でした。それとは対照的に城下町を豊かにしたのは士農工商のなかの工商階級でした。
仙台にも鉄砲町や鍛冶町があり職人が鉄砲や刀剣を、そしていろいろな農機具を作っていました。しかしこの職人たちは名前を残しません。記録もまれです。
しかし商人の方は記録がいろいろあります。郷土史家、田村昭さんによると仙台で一番古い店は田善銅器店(1596年)で、それから河原町にあった五軒茶店(1623年)や千松島酒造(1673年)などが記録に残っているそうです。
仙台藩は近江に飛び地の領地を持っていたこともあり、江戸中期に京都や滋賀からの商人が移住して来ました。奥州街道と仙台の大町通りの交差点にある「芭蕉の辻」近辺に店を構え、京都、大阪との商売で大きな儲けをもたらし、仙台を潤したのです。そのような豪商の代表は江戸中期の日野屋の中井新三郎です。現在の滋賀県の日野村からの移住者でした。
そしてもう一人居ます。現在の京都府の丹波の八木村から移住してきた豪商で、芭蕉の辻の近くに、「紅久」という化粧品や小間物を売っていた店を構えたそうです。「紅久の」の創業は天明3年の1783年と言われています。その他、近江商人が何人も移住して来て、薬品店、小間物店、呉服店などなどを開業し、仙台の城下町は繁栄の時代を謳歌したのです。
仙台と京都の物流は西の峠を越して最上川に出て、酒田まで川を下って行いました。酒田には近江商人の町があり、そこを経由して北前船で京都、大阪と取引をしていたのです。現在、酒田や鶴岡、そして北海道の松前へ観光旅行をすると当時の近江商人の豪商の屋敷などがあって、北前船の重要性がよく理解できます。
明治維新が起きましたが、商人や職人は江戸時代のままの活躍を続けたのです。鉄道や銀行を作ったのは仙台の豪商たちでした。明治20年頃になって政府がやっと整い税収が増大してから鉄道も銀行も民間から買い上げて国有にしたのです。
その明治時代に活躍した豪商の一人に「紅久」の4代目、八木久兵衛がいました。現在も仙台にある七十七銀行を作り、仙台味噌で大儲けをし、上野から仙台まで鉄道を敷き、兎に角、八面六臂の活躍をします。終いには勅撰の貴族院議員になります。そうして仙台城の南西の広大な裏山を全て買い取る決心をするのです。実際にこの広大な国有の土地を買収する事業を完成したのは五代目の八木久兵衛の時です。そのお陰で、現在の仙台市に、「八木山」という地名が残りました。
その5代目、八木久兵衛の息子が八木栄治さんです。私が向山小学校へ通って居た頃、この栄治さんの一人娘が同級生に居ました。あまり目立たない大人しい子供でした。小学校卒業以来、消息を聞いていません。
しかし八木栄治さんは小学校のPTA会長をしていたので何度かお会いしました。いかにも金持ちという鷹揚な態度で、やさしい話ぶりだったのを覚えています。
八木栄治さんの家は八木山の松林の中にある一軒家でしたが決して贅沢な家ではありませんでした。当時はそれでも広大な八木山一帯の土地を持っていて、その後、仙台市が動物園を作る時土地を寄付したり、住宅地へ開放したりして戦後の仙台の発展へも貢献していました。
権力を持っていた伊達家の歴史はいろいろ記録が残っています。しかし実際に城下町へ繁栄をもたらした町人達の記録は貴重なものと思います。今後も続編で少しずつ書いて行きたいと思っています。(続く)
家族を失った人々のことを思えば、こんな軽い痛手は書くべきでないと逡巡していました。しかし時が経つても癒されません。
昔、大学を卒業するまで仙台に住んでいたので家族と共によく海水浴に行きました。当時は海水浴くらいしか娯楽が無かった時代です。その海水浴場の若林区の荒浜も、菖蒲田浜も、桂島の浜も、野蒜の海水浴場もみんな津波で破壊され、瓦礫の浜になってしまったのです。遊びに行った石巻や松島の町も瓦礫の広場になってしまったのです。残ったのは家族を失った人々の慟哭だけです。自分の思い出がすべて流れ去ったことと重なって人々の慟哭が聞こえるのです。毎日のように聞こえます。
そんな毎日ですが、数日前からしきりに奥松島の宮戸島のことを思い出しています。昔は交通が不便な島で、塩釜から「焼き玉エンジン」のポンポンという音のする小さな客船で行ったものです。山がちな島には3つ程の浜が開いています。大鷹森という山に登ると眼下に松島の島々が見える展望台がありました。
島へ行くと室浜の奥田実おじさんの家に泊ります。茹でたシャコを大ザル一杯に盛り上げて、馳走してくれます。新婚のころ妻を連れていったら昔と同じように大ザル一杯のシャコを出してくれました。あれから50年、それが我が家の伝説になっています。その室浜も大津波で家々が流されたのです。
その奥田実さんは祖父が島の小学校の校長をしていたときの教え子だったのです。祖父は喜蔵という名前で、大酒飲みでした。あまり酒を飲んだので、私が生まれる前に死んでしまいました。
奥田実さんはその祖父に可愛がってもらったようです。その思い出を話すときは目に涙を溜めていました。大男の実おじさんが悲しそうにして体をすぼめているのです。ある時は私だけを連れて奥松島の嵯峨渓を案内してくれました。自分で大きな木造の伝馬船の櫓を漕いで、大波を巧みに避けながら嵯峨渓の洞門の中へ入って行きます。今回の大津波が室浜を襲う前に、何年も前に実おじさんは死んでいました。ああ、大津波を見なくて良かったと思いながら冥福を祈っています。
その室浜から山を越えた谷間にお寺があります。そのお寺の客殿にもよく泊りました。単身赴任で宮戸島小学校の校長として渡った祖父が、そのお寺に下宿していたのです。先代の住職さんと気が合ったらしく祖父の思い出話を沢山してくれました。
室浜で酒を飲んで気勢のあがった祖父が近道をして何度も寺へ帰ってきたそうです。近道とは闇夜の裏山を登って帰ってくるのです。室浜から回り込んでちゃんとした道があるのに近道が好きだったのです。
これも住職さんから聞いた話です。ある時、松島の料亭で飲んで居て、島通いの客船に乗って帰ろうとしました。しかしその最終便は宮戸島までは来なくて2km位手前の港が終点だったそうです。酒で気勢の上がっている校長さんがそこから2kmの海を泳いで帰って来たそうです。その話は住職さんから何度も聞きました。
そのお寺はかなり谷を登った高台にあります。今回の大津波はそこまでは襲わなかったと信じています。50年程まえに新婚の妻を案内して行ったのが最後です。
あの思い出の宮戸島が少しでも早く復興するようにと時々祈っています。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
(暗い木々の梢の間から明るい太陽が射している写真です。希望を持って生きて行たいと思います。家族を失った人々のために祈っています。)