1853、米国特史、ペリーが浦賀に上陸し、翌年の1854年再び来日し、横濱の、現在の神奈川県庁付近に設営した会議場で日米和親条約が調印されました。そして続けて交渉の場を下田へ移し、了仙寺で日米和親条約の細則の下田条約を作ったのです。それに従って下田の玉泉寺にはじめてのアメリカ領事館が出来、ハリスが初代領事として着任したのです。このように下田は日本の歴史上大事件である鎖国から開国への転換の地となったのです。
1854年、ペーリーが上陸し、交渉の場の了仙寺まで軍楽隊を従えて威風堂々と行進した道が当時の雰囲気に復元されて観光道路になっています。その道にはナマコ壁の家が並び、アジサイが咲いていました。開国博物館もあります。そんな風景写真を示します。下田に行ったら、この歴史通りを是非訪れてみて下さい。
人間世界には格差や差別が付きまとうものです。少し気を許すと以前の差別社会へ逆戻りします。ですから常に差別の歴史、それを克服した努力を振り返って、忘れないようにする事が非常に重要だと私は信じています。
現在、世界一の国力を有し、自由と平等を謳歌しているアメリカ合衆国も黒人差別の恥ずかしい歴史が有ったのです。つい最近まであったのです。
黒人のオバマさんが大統領に選ばれた事は黒人差別撤廃の成功の「あかし」として歴史的な大事件でした。
昔の黒人差別のすさまじさを知っていた私は思わず、「万歳!アメリカ人は偉い!」と何度も、何度も心の中で叫びました。その叫びは現在でも続けています。
そこで、以下に私が見たアメリカの黒人差別の実態をご紹介したいと存じます。
◎50年前のアメリカの黒人差別の実状
1960年から二年間、オハイオ州の州都コロンバス市に住んでいました。バスに乗ると、白人は前半分の席、黒人は仕切りの後ろ。遠慮して黒人の席に座ったら、白人男性が寄って来て、君は前半分に座れと言うのです。それ以来、白人席の末席に座るようにしたものでした。
コロンバス市の南半分は黒人街、北半分は白人が住む場所と厳格に分かれていました。白人街にある映画館やレストランは白人専用で、黒人は立ち入り禁止です。
オハイオ州立大学には黒人学生が居ませんでした。居たとしても、その数は圧倒的に少ないので私は見た事がありませんでした。教授は当然、皆白人でした。実験室の掃除人はメキシコ人で、黒人には禁止されていた職種でした。
初めのころはこのような厳しい差別に心が痛み暗い気持ちになったものでした。しかし、少し経つと慣れてしまい、当然と思うようになるのです。 人間とはそのようにいい加減なものなのです。
日本の芝居ではよく黒子が舞台へ出入りしますが、だれも気にしません。黒人をこの黒子と思えば黒人が見えなくなるのです。この秩序は慣れてしまうと実に快適です。
ある時、アパート代の安い黒人街の物件を見に行くと、案内の黒人女性は柔和で大変親切です。アパートもかなり立派で、しかも安いのです。
引っ越そうとして大学の白人学生に相談したところ、ものすごい勢いで反対するのです。黒人は親切だが、貧しい親戚がしょっちゅう君のアパートに来て、食べ物をねだる。勉強なんかできないと言うのです。
後で分かったのですが、本当の反対の理由は黒人差別の秩序が壊れるのを恐れていたのです。
アメリカは自由と平等の国と聞いていましたが、50年前には凄い黒人差別が厳然としてあったのです。
@黒人差別克服への努力、そして色々な試みの挫折
その後、ベトナム戦争がありました。黒人兵は危険な最前線に出て活躍したので、白人が黒人を見直し始めたのです。
国内では黒人差別撤廃の公民権運動が盛り上がりました。リーダーは、後に白人に暗殺されたキング牧師でした。
そのキング牧師の暗殺された日を休日とし、哀悼の意を表する州が数多く出来ました。私の住んでいたオハイオ州もそうです。全官公庁・学校が休みにして、キング牧師を記念する日になっています。
1990年前後にもコロンバス市に二年間住みました。
すると流石にバスの白人席と黒人席はなくなり、皆一緒に座るようになっていました。オハイオ州立大学も黒人学生が三分の一くらいになっています。周辺のレストランの黒人席と白人席の区別はなく、混じって座っているではありませんか。黒人の差別は非常に弱くなっていたのです。
同僚のR教授とビールを飲みながら、「30年経って住んでみると、黒人差別がなくなっているので驚いた」と言うと、R教授は「先祖の犯した罪は子孫が償う。公共の場所での差別はなくなった。しかし、居住地は相変わらず南と北に分離されている。黒人学校と白人学校は依然存在している」と言うのです。
そして、R教授は悩ましそうに続けます、「表面的な差別は撤廃できるが、心の中の差別は簡単になくならない」と。
私:「でも、先日、白人と黒人の若者が一緒に楽しそうにバーベキューをして騒いでいたが…」
彼:「そのような慈善活動をする若者グループが多くあり、混合ダンスパーテイなども実行する。しかし、帰る家は別々の住宅街にある」。
コロンバス市では、黒人小学校と白人小学校の児童分布を平等にするため、毎日、バスを黒人街へ黒人児童を迎えに行かせ、白人小学校へ送り込む。白人住宅地域へもバスを送り、その逆を行う。こうしたバス送迎を徹底し、白人と黒人の児童が完全に交じり合った教育を三年間続けたそうです。
しかし、黒人の子供には特有の遊び方があるのです。それと同様に、白人の子供にも友達同士の付き合い方が黒人の子供と異なっています。
大人の偽善的な試みの犠牲になるのは両方の生徒だったのです。この試みは両方の子供の反対に遭い挫折したそうです。3年間だけで終わったのです。
@黒人差別撤廃への社会運動の成功
1990年以後にもアメリカ各地を旅行しました。
色々聞いて見ると、どの会社も黒人を一定割合以上採用しなければならないという規則がるのです。
テレビやマスコミも黒人差別撤廃のキャンペーンを繰り返しています。
その結果、白人だけの高級住宅地区へ黒人も混じって住むようになりました。
その頃から黒人の市長があちこちで選ばれるようになったのです。そしてブッシュ政権では黒人女性のライス国務長官が大活躍しました。
そしてついに黒人のオバマさんがアメリカの大統領として選ばれたのです。公民権運動のさなか銃弾に倒れたキング牧師は天国で大いに喜んでいるに違いありません。
@日本に於いての黒人差別
アメリカ本国では黒人差別はかなり無くなったのです。しかし日本へ来る黒人をあなたは差別していないでしょうか?私は時々心配になります。電車の中で、路上で道を聞いている黒人へ人々はあまり親切ではないようです。
人間は自分が差別されると非常に怒りますが、割合気楽に差別をする傾向があります。この傾向を忘れないで差別撤廃に努力しなければなりません。常に努力する事が重要と私は信じています。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人