後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

中国の一党独裁は長期間続く!・・国民の本音はそれを支持しているからです

2011年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

Zhou_enlai1 毛沢東が死に、4人組みが逮捕され文化大革命が終了したのは1976年です。

その5年後の1981年に私は中国を訪問しました。北京の殺伐とした雰囲気に胸がつぶれました。

街路や公衆便所の汚さは人々の心の荒廃を示していて身の毛がよだちます。

招待してくれた周栄章教授は1968年に突然大学の研究室から農村へ下放されたそうです。

ひどく貧しい農村へ追いやられたそうです。それから7年間、毎日、毎日ブタへ餌をやり糞の掃除をして暮らしたそうです。食料は極端に乏しく、飢えで死ぬ人も居たそうです。その間、家族はバラバラに下放され、何処に居るのか、生死さえ分からなかったそうです。これこそが文化大革命の実態だったのです。

大躍進政策で失敗した毛沢東がもう一度権力を握るために全国で紅衛兵を動員して知識人や敵対する政治家などを抹殺しようとしたのが文化大革命なのです。各地で内戦状態になりました。

それは全国を凄惨な戦争に巻き込んだ毛沢東の権力奪取闘争でした。

その実行部隊が毛沢東の妻の江青などの4人組でした。文化大革命の間、この4人が中国の頂点に立って惨劇を続けたのです。

この文化大革命の間、毛沢東に従いながらも国民の苦しみを少しでも少なくしようと粉骨砕身の活躍をしたのが上の写真にある周恩来総理でした。彼は失望にうち砕かれた全ての人々へ生きる希望を与えたのです。暗夜の灯として、いまだに全中国人の心の中に生きています。彼は1976年1月に死にました。そして間もなく毛沢東もこの世を去ったのです。

鄧小平が権力を握り、華国鋒を追放し、やっと平穏な日々が続くようになったのは1980年くらいからです。

この文化大革命の凄惨な体験から中国人は2つのことを心の底に強く抱くようになったのです。(1)国の分裂と内戦は絶対に避ける、そして(2)充分な食糧生産と経済発展の為には全てを犠牲にする、という2つの強い信念です。

民主主義や多数の政党による議会制の導入は、もう一度、人々を内戦のるつぼへ投げ入れる可能性を持っています。これは死んでも避けるべきです。一党独裁が最善の方法なのです。これこそが現在の中国人の本音なのです。

毛沢東の無思慮な大躍進政策や文化大革命で餓死した中国人は3000万人から5000万人いると言われています。

中国人の本音は餓死するくらいなら経済発展に成功している共産党一党独裁を支持しています。家族がバラバラに下放されないなら共産党一党独裁を支持しています。

さらに中国の政治を深く理解するためには、中国の政治グループの背後には必ず軍隊が密着していることを知るべきです。

鄧小平が権力を握ることが出来た理由は彼の軍事委員会主任としての軍部操縦術が抜群だったのです。政治闘争は必ず軍隊同士の内戦へ繋がるのです。それが中国なのです。だからこそ共産党内の権力闘争が激しくならないような話し合いでの後継者選びを国民が支持しています。

従鄧小平は1989年の天安門広場での民主化デモを戦車を出動して鎮圧したのです。彼の決断は中国人の本音から言うと正しかったのです。学生以外の大多数の社会人が鄧小平の決断を熱烈に支持しました。

充分な食料生産と経済発展の為に鄧小平は共産主義体制の計画生産体制を廃止して、市場経済原理にもとづく自由競争生産へ切り替えたのです。それは1992年の鄧小平の南巡講話で確立されました。

南巡講話は中国人の本音で支持されたのです。その結果、中国のGDPはアメリカについで世界2位になったのです。国民が熱烈に支持したので、彼等は本気で経済発展のために働いたのです。ガムシャラに働いたのです。

経済発展の成功は共産党一党独裁をさらに強固にしたのです。

次期国家主席と言われている習近平も7年間、下放され貧しい農村で辛酸を舐めたのです。従って彼も国内の対立と内戦を憎んでいいるに違いありません。絶対に共産党一党独裁を守り抜くと思います。

日本がいろいろな分野で中国と協力関係を構築する場合、上に書いたような中国人の本音を充分に考慮に入れた上で交渉をするべきと信じています。

いたずらに共産党独裁を非難して、中国人の本音に逆らわない事が肝要です。アメリカの人権外交の尻馬に乗ってはいけません。人権が重要な事は中国人が一番よく知っているのです。

近代の中国の歴史も考えた総合的な戦略を深めれば、対中外交において日本側が主導権を握れると信じています。

皆さんのご意見を頂ければ嬉しく思います。

余談ながらこの文章は中国人にも是非、読んで貰いたいと思います。そして私の間違いをご指摘頂ければ大変嬉しく思います。(終り)


桂の木が甘い芳香をはなつ季節になりました・・・その桂の木の賛美

2011年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

桂の木が今年も紅葉し始めました。桂は日本、朝鮮、中国にある樹木で葉はハート形に近い丸いかたちをしています。

秋に桂の林に入ると、足元に散った葉からたちのぼる甘い芳香に身がつつまれます。その香りはメープルシロップのカナダの甘さを和風にして上品な香りに変化させたようなものです。心地よく、幸福感につつまれるような香りです。下に入間・彩の森公園と神代植物公園で撮った桂の木の写真をお送りいたします。

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桂の木は若い時から大好きな樹木でした。

ある時、山を歩いていると突然甘い香りに包まれ、疲れが一瞬にして消えたことがありました。甲斐駒岳に登って疲労困憊し、やっと麓に降りて来たとき、一面に紅葉した桂の林に入りました。上品な甘い香りがしています。ひどい疲労感が急に充実感に変わり、とても幸せな気分でゆっくり登山口に出てきました。

それ以来、紅葉の季節になると甲斐駒の麓の桂の林のところまで何度か登りました。

奥多摩の御岳に登って下りて来た時も同じような経験をしました。ケ-ブルカーの一番下の乗り場に近い沢沿いに、桂の大木があり、紅葉した落ち葉が一面に散り敷いていました。足を踏み入れると甘い香りが身をつつみます。ケーブルーカーに乗らずに自分の足で下りて来た私の努力がむくわれ、幸せな気分になりました。

わざわざ山に行かなくても、よく観察すると公園にも桂の林があります。上の写真の神代植物公園の池のほとりには、40年位前から桂の林があります。

昔は子供の腕の太さくらいの若木を植林した林でした。しかし現在は見上げるような大木の林になってしまいました。

秋になるとこの桂の林へは毎年必ず、家内と行きます。香りを楽しみ、木々の成長を見ながら思い出話をします。

随分以前のことでしたが私の研究室の若い人々が桂の苗木を持って来て、この家の庭に植えてくれたことがありました。私が桂の木が好きなことを知っていたのです。その桂の木は毎年枝を繁らせ、とても速い勢いで成長しました。

毎年、毎年、その枝を切るのが私の仕事になりました。しかし庭の他の植物のためにならないほどの大木になりました。そこで私は決心して、遂に切ってしまったのです。切り倒すまでの15年位の間、秋になると庭が甘い香りに包まれたものです。

それも遠い、遠い昔の事になってしまいました。毎年、桂の紅葉の下を散歩しながらいろいろな事を思い出します。

それにしても上に示した私の写真が下手です。桂の木の素晴らしさを表現していません。ネットで検索しましたら、「風に吹かれて」という美しい写真集を発見しました。全国を旅しながら撮った見事な風景写真集です。その中に全国の有名な桂の写真を集めたアルバムがありました。是非、ご覧下さい。YRLは、http://blowinthewind.net/katsura/chorakuji.htm です。この「風に吹かれて」という写真集には他にも感動的な風景写真が沢山あります。どうぞお楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

藤山杜人