後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

歴史から抹殺される胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記・・・そして中曽根総理大臣の靖国神社参拝中止

2011年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

共産党独裁の中国に1982年から1987年まで、民主主義改革をしようとしていた胡 耀邦が総書記として活躍していたのです。この間は鄧小平の自由な開放経済政策とともに中国に民主化が進行するような明るい雰囲気があったのです。

しかし1989年の天安門事件で歴史は暗転するのです。

1978年から1992年まで中国の最高権力者だった鄧小平が次第に、「開放経済政策」を維持しながらも共産党独裁で行く決心をします。そして自分の部下だった胡 耀邦総書記を1987年に解任した上で、党籍まで剥奪したのです。胡 耀邦はショックのあまり急死し、1989年の4月15日の彼の追悼大会から天安門事件がはじまります。

後任にはやはり鄧小平の忠実な部下だった趙 紫陽を1987年に任命しました。しかし天安門の抗議デモへ理解を示した趙 紫陽総書記も1989年に解任してしまうのです。

この鄧小平の決断で中国は共産党の独裁国家になったのです。胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記のどちらも鄧小平の忠実な部下で、可愛がってきた弟子だったのです。その2人を切ってしまっても共産党独裁路線のほうが中国の安定と経済発展のためになるというのが鄧小平の信念だったのです。

天安門事件の間、上海でも民主化のデモが起きていました。それを断固として武力弾圧した江沢民を次の国家主席に指名したのも鄧小平でした。

そうすると共産党独裁路線を堅持した江沢民主席や、現在の胡錦濤主席にとっては民主化を進めた胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記の存在を抹殺したくなります。ですから中国の新聞やマスコミから胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記の名前が出なくなりました。北京政府のご機嫌をとらないと取材を禁止される日本の新聞やテレビもこの2人の名前は絶対に出しません。

その結果、現在の日本の若い人々は胡 耀邦と後任の趙 紫陽の名前を知りません。歴史上の抹殺はこうして進むのです。

それはそれとして、1983年に訪中した中曽根総理大臣が胡 耀邦総書記に会います。胡 耀邦は民主国家の総理大臣へ最大の敬意を表します。中曽根さんはその立派な態度と胡 耀邦の開明的な政治に感動します。そして靖国神社参拝は日本を尊敬している胡 耀邦総書記を窮地へ追い込むことになると判断し、1985年から靖国神社参拝を中止したのです。あの気の強い中曽根さんがそのように考えたのですから胡 耀邦の人柄に感動したに違いありません。

最近、日本では胡 耀邦と趙 紫陽の名前が消えかかっていますので、駄文を書いてみました。

下に鄧小平の生前の写真と1997年、93歳で亡くなったときの追悼大会の写真を示します。出典は:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 です。

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薔薇の花の盆栽展・・・違和感がありませんか?

2011年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

先日行った神代植物公園で「薔薇の花の盆栽展」を開催していました。

固定観念の強い私は盆栽といえば懸崖の松や、ケヤキやサツキという和風の樹木に限ると思いこんでいました。薔薇の花の盆栽なんてトンデモナイ。違和感で胸が苦しくなってしまいました。美味しい刺身をマヨネーズやケチャプをつけて食べるような気分です。

しかし盆栽は最近イタリアやヨーロッパで立派な趣味として大流行していることを思い出しました。ア、そうか。ヨーロッパで流行っている薔薇の盆栽を日本に輸入したのかもと思い直して写真を撮りました。

嫌々思いながら撮った写真ですので、上手く撮れませんでした。でも盆栽の好きな方々には喜ばれると思い、下にお送り致します。

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如何でしょうか?お楽しみ頂けましたでしょうか?

それでも違和感で胸苦しい方々の為に下の写真をお送りいたします。ジット見詰めていると胸苦しさが次第に消えてゆきます。少なくとも私はそうでした。

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22年前の天安門事件を振り返る(2)広場の惨殺死体とその最中のゴルバチョフ大統領の訪中

2011年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

天安門事件は1989年の4月15日の胡 耀邦総書記のお葬式から始まりました。鄧小平から急に総書記を解任され党籍をはく奪されたショックから心臓発作で急死したと言われています。中国の民主化を進めていた胡 耀邦総書記の死を悼み、若者たちが天安門広場に集まって来たのが、その後の激しい抗議デモのキッカケになったのです。抗議デモやハンガーストライキがそれから6月下旬まで続きました。その間軍隊が銃で射殺したり、戦車が抗議デモの若者を自転車ごと轢き殺していたのです。

その時、私はアメリカの大学に居ました。昔からの恩師が学科主任をしていました。彼はアジア人と中国大陸から留学している40名ほどの学生を一室に集め、天安門広場で大変な事が起きていると話し、自分は民主化運動を強く支援すると興奮した口調で言いました。そして中国大陸からの留学生は郷里の両親・知人・友人へ電話をしてもその長距離電話代は自分が支払うと宣言したのです。その会合は大変切迫した雰囲気でした。詳しい事は分かりませんでしたが私は中国大陸でまた内戦が始まったのかと悲しい気持ちになったのを覚えています。

それはそれとして、天安門広場での殺戮が起きている間、ゴルバチョフ大統領が北京を6月15日から17日まで訪問します。訪問の目的は1959年から30年間にわたる激しい中ソ対立の解消と友好関係の樹立でした。鄧小平も彼を歓迎し、中ソの対立は解消しました。抗議デモをしていた人々はゴルバチョフ大統領の訪問を喜びました。しかし鄧小平は彼をデモ隊から隔離し、17日に北京空港は送りだしたのです。

そしてその後デモ隊を徹底的に弾圧し、天安門広場を軍隊の清掃隊で綺麗に掃除してしまったのです。天安門広場は何事もなかったように地方からの観光客の行き来する平和な場所になったのです。

天安門門広場で何が起きたか知りたい方々は「天安門事件の動画」と「天安門事件の写真」を検索すると想像を絶する惨劇の映像を見ることができます。その中から私は3枚の写真を選びました。一番上の上の写真は当時のマスコミに何度も出た写真です。中国共産党は如何に平和的に軍隊が振る舞ったかを示す写真として許可した写真です。2枚目もデモ隊が焼いた車両の写真です。デモ隊の乱暴ぶりを示すので共産党は許可しました。

そして3枚目は検閲を潜りぬけたと思われる多数の写真の一枚です。この写真はあまりにも無残な光景なのでサムネイル形式で掲載いたします。掲載しようかしないか、随分迷いましたが、結局掲載する決断をしました。中国人の民主化を求める正義感と、死をも恐れぬ勇気を讃えるために掲載することにしました。中国民族を尊敬するために掲載いたします。

そして天安門広場で犠牲になった全ての人のご冥福をお祈り申し上げます。藤山杜人

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