共産党独裁の中国に1982年から1987年まで、民主主義改革をしようとしていた胡 耀邦が総書記として活躍していたのです。この間は鄧小平の自由な開放経済政策とともに中国に民主化が進行するような明るい雰囲気があったのです。
しかし1989年の天安門事件で歴史は暗転するのです。
1978年から1992年まで中国の最高権力者だった鄧小平が次第に、「開放経済政策」を維持しながらも共産党独裁で行く決心をします。そして自分の部下だった胡 耀邦総書記を1987年に解任した上で、党籍まで剥奪したのです。胡 耀邦はショックのあまり急死し、1989年の4月15日の彼の追悼大会から天安門事件がはじまります。
後任にはやはり鄧小平の忠実な部下だった趙 紫陽を1987年に任命しました。しかし天安門の抗議デモへ理解を示した趙 紫陽総書記も1989年に解任してしまうのです。
この鄧小平の決断で中国は共産党の独裁国家になったのです。胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記のどちらも鄧小平の忠実な部下で、可愛がってきた弟子だったのです。その2人を切ってしまっても共産党独裁路線のほうが中国の安定と経済発展のためになるというのが鄧小平の信念だったのです。
天安門事件の間、上海でも民主化のデモが起きていました。それを断固として武力弾圧した江沢民を次の国家主席に指名したのも鄧小平でした。
そうすると共産党独裁路線を堅持した江沢民主席や、現在の胡錦濤主席にとっては民主化を進めた胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記の存在を抹殺したくなります。ですから中国の新聞やマスコミから胡 耀邦総書記と後任の趙 紫陽総書記の名前が出なくなりました。北京政府のご機嫌をとらないと取材を禁止される日本の新聞やテレビもこの2人の名前は絶対に出しません。
その結果、現在の日本の若い人々は胡 耀邦と後任の趙 紫陽の名前を知りません。歴史上の抹殺はこうして進むのです。
それはそれとして、1983年に訪中した中曽根総理大臣が胡 耀邦総書記に会います。胡 耀邦は民主国家の総理大臣へ最大の敬意を表します。中曽根さんはその立派な態度と胡 耀邦の開明的な政治に感動します。そして靖国神社参拝は日本を尊敬している胡 耀邦総書記を窮地へ追い込むことになると判断し、1985年から靖国神社参拝を中止したのです。あの気の強い中曽根さんがそのように考えたのですから胡 耀邦の人柄に感動したに違いありません。
最近、日本では胡 耀邦と趙 紫陽の名前が消えかかっていますので、駄文を書いてみました。
下に鄧小平の生前の写真と1997年、93歳で亡くなったときの追悼大会の写真を示します。出典は:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 です。