(左が胡 耀邦 総書記で、右の中央が趙 紫陽 総書記の写真です)
1985年、ソ連の大統領にゴルバチョフ書記長が就任して、情報公開などの民主化運動を進める新しい政策を次々に実行しました。1989年にはベルリンの壁の崩壊、1991年にはソ連邦の解体が起き、エリツエン氏がロシアの初代大統領になり、共産党独裁に終止符が打たれました。
中国でゴルバチョフ大統領と同じように、穏健な民主化を進めようとした2人の共産党のトップが居たのです。胡 耀邦総書記とその解任後にあとをついだ趙 紫陽総書記の2人です。
1989年4月から6月にかけて天安門に若い中国人が集まり民主化運動の集会を連日開催したのです。
これに対して胡 耀邦総書記と趙 紫陽総書記は民主化運動に深い理解を示し、それを支持しました。
それに対して鄧小平を主とする長老保守派が断固として反対し、胡 耀邦総書記をまず解任し、後任の趙 紫陽総書記もすぐに追放します。
そして戒厳令をしき、軍隊を導入し、デモ参加者を撃ち殺して鎮圧してしまったのです。
この鄧小平の残酷な決定に世界中の人々が悲しみました。
しかし、その後の中国の驚異的な経済成長によって多くの中国人から支持されているのも事実です。私は1996年頃、保定の工業特別区へ何度か行きましたが、会った多くの中国人は鄧小平の称賛者でした。
しかし中国の天安門事件の時、抗議集会に集まった人々を理解し、支持した胡 耀邦総書記と趙 紫陽総書記を忘れないようにしたいと思います。
以下にWikipedeaから転載した参考資料を添えて、ご両人のご冥福をお祈りしたいと思います。
========胡 耀邦==========1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われ、ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁した。更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、外国人旅行者にもチベットを開放した。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%80%80%E9%82%A6
=========趙 紫陽===========
19日午前4時、趙紫陽は李鵬と天安門広場で絶食を続ける学生たちの前に向かい、「我々は来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせながら約8分間、拡声器を手に学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。趙紫陽が公の場に姿を見せたのは、これが最後となった。午後10時から開かれた戒厳令を布告する大会には「体調不良のため」欠席した。その後、6月3日から翌4日にかけて、デモ隊は武力弾圧された(第二次天安門事件)。 自宅軟禁下に置かれたものの外出は比較的自由にでき、趣味のゴルフなどを楽しんでいたが、1997年9月、第15回党大会の主席団には天安門事件の再評価を求める書簡を送った後には、来客が追い返されたり外出を制限された。失脚直後から長年の友人である宗鳳鳴が度々気孔師として訪れ、談話をまとめた物が2007年に香港で出版されている。 一説には、鄧小平は「六四天安門事件で武力弾圧に反対した罪を認めるなら復帰を許す」という手紙を趙紫陽に3度送ったものの、趙紫陽は「反対は信念に基づいたもの」としていずれも拒否したと言われている。陳雲、李先念らが推薦した後継者の江沢民が右顧左眄する様子を見て失望したという。=====以下省略====== 失脚と軟禁生活:6月23日、24日の両日に開催された第13期4中全会で、“動乱を支持し、党を分裂させた”趙紫陽は、党総書記就任直後から四つの基本原則から逸脱し、ブルジョア自由化に寛容だったとされて党の全職務を解任された。党籍のみ、そのままとされた。