後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

22年前の天安門事件を振り返る(1)胡 耀邦総書記と趙 紫陽総書記

2011年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

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(左が胡 耀邦 総書記で、右の中央が趙 紫陽 総書記の写真です)

1985年、ソ連の大統領にゴルバチョフ書記長が就任して、情報公開などの民主化運動を進める新しい政策を次々に実行しました。1989年にはベルリンの壁の崩壊、1991年にはソ連邦の解体が起き、エリツエン氏がロシアの初代大統領になり、共産党独裁に終止符が打たれました。

中国でゴルバチョフ大統領と同じように、穏健な民主化を進めようとした2人の共産党のトップが居たのです。胡 耀邦総書記とその解任後にあとをついだ趙 紫陽総書記の2人です。

1989年4月から6月にかけて天安門に若い中国人が集まり民主化運動の集会を連日開催したのです。

これに対して胡 耀邦総書記と趙 紫陽総書記は民主化運動に深い理解を示し、それを支持しました。

それに対して鄧小平を主とする長老保守派が断固として反対し、胡 耀邦総書記をまず解任し、後任の趙 紫陽総書記もすぐに追放します。

そして戒厳令をしき、軍隊を導入し、デモ参加者を撃ち殺して鎮圧してしまったのです。

この鄧小平の残酷な決定に世界中の人々が悲しみました。

しかし、その後の中国の驚異的な経済成長によって多くの中国人から支持されているのも事実です。私は1996年頃、保定の工業特別区へ何度か行きましたが、会った多くの中国人は鄧小平の称賛者でした。

しかし中国の天安門事件の時、抗議集会に集まった人々を理解し、支持した胡 耀邦総書記と趙 紫陽総書記を忘れないようにしたいと思います。

以下にWikipedeaから転載した参考資料を添えて、ご両人のご冥福をお祈りしたいと思います。

======== 耀邦==========1980529日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われ、ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁した。更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、外国人旅行者にもチベットを開放した。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%80%80%E9%82%A6

========= 紫陽===========

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E7%B4%AB%E9%99%BD

19日午前4時、趙紫陽は李鵬と天安門広場で絶食を続ける学生たちの前に向かい、「我々は来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせながら約8分間、拡声器を手に学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。趙紫陽が公の場に姿を見せたのは、これが最後となった。午後10時から開かれた戒厳令を布告する大会には「体調不良のため」欠席した。その後、63日から翌4日にかけて、デモ隊は武力弾圧された(第二次天安門事件)。

失脚と軟禁生活:6月2324日の両日に開催された第13期4中全会で、“動乱を支持し、党を分裂させた”趙紫陽は、党総書記就任直後から四つの基本原則から逸脱し、ブルジョア自由化に寛容だったとされて党の全職務を解任された。党籍のみ、そのままとされた。

自宅軟禁下に置かれたものの外出は比較的自由にでき、趣味のゴルフなどを楽しんでいたが、19979月、第15回党大会の主席団には天安門事件の再評価を求める書簡を送った後には、来客が追い返されたり外出を制限された。失脚直後から長年の友人である宗鳳鳴が度々気孔師として訪れ、談話をまとめた物が2007年に香港で出版されている。

一説には、鄧小平は「六四天安門事件で武力弾圧に反対した罪を認めるなら復帰を許す」という手紙を趙紫陽に3度送ったものの、趙紫陽は「反対は信念に基づいたもの」としていずれも拒否したと言われている。陳雲、李先念らが推薦した後継者の江沢民が右顧左眄する様子を見て失望したという。=====以下省略======


エキゾチックな3種のパンパスグラスの写真をお送りします

2011年10月15日 | 写真

この前の記事が理屈っぽい内容でしたので、明るいマリーゴールドと気楽に見て楽しめるパンパスグラスの写真をお送りします。先日、神代植物公園で撮りました。3種の名前は忘れましたが、どれもパンパスグラスの一種でした。ご存知の方はお教え下さい。

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何故アメリカは韓国、李明博大統領夫妻を国賓として招待したか?

2011年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

韓国人はアメリカへ深い恩義を感じています。日本領だった朝鮮を解放し、大韓民国を作ったのがアメリカだったのです。日本を敗戦に追い込んだアメリカのお陰で韓国が独立出来たのです。

そして朝鮮動乱でもアメリカは韓国を救ったのです。釜山近郊まで攻め込んで来た北朝鮮軍へ対して仁川上陸の奇襲作戦を敢行しました。そして北朝鮮軍を満州国境近辺まで押し返したのです。その後、中国軍の人海戦術で38度線まで押し返されましたが、兎に角、韓国を守りぬいたのはアメリカ軍です。アメリカ軍の将官、将校を含めて多数のアメリカ兵が戦死したのです。

恩義を大切にする韓国人はアメリカ人が血を流して韓国を守ってくれた事を決して忘れません。

そして韓国はベトナム戦争でアメリカへ恩返しをするのです。アメリカ兵の嫌がる危険な作戦に率先参加し、北ベトナム軍と白兵戦をしたのです。ベトナム中に軍用道路を作ったのも韓国です。アメリカ人はこの韓国人の働きを決して忘れません。アメリカ人から韓国軍へ対する感謝と尊敬の言葉を直接聞いたことが何度もありました。

ベトナム戦争後、アメリカでタクシーに乗った時、私は韓国人と間違われ、料金は不要だと言われたことがあります。その運転手はベトナム戦争で韓国兵と一緒に戦って、命を救われたと話していました。

その後の湾岸戦争でもイラク戦争でも韓国軍はアメリカと一緒に戦ったのです。

それに比較して日本とアメリカの関係の歴史は一体どのようなものだったでしょうか?

日本政府は日米関係の重要性を常に強調します。しかし民衆は安保反対運動、ベトナム戦争反対運動を全国民的規模で繰り広げてきました。

その上最近の鳩山政権は沖縄基地移転問題でアメリカの不信感を増大しました。

アメリカ人は日本がアメリカに恩義を感じていない事を知っています。韓国に比較して反米、あるいは嫌米の感情が強いことを知っています。

しかし日本の経済規模は、1990年頃まで韓国の10倍あったのです。(現在はそれ程の差はありません。)

従って経済分野で日米は強い協力関係がきずかれて来たのです。トヨタ、ニッサン、ホンダはアメリカ国内に大規模な自動車生産工場をつくり多くの失業者を救済したのです。

このように歴史的に考えて見ると日米と韓米との2国間関係の性質の相違が以下のように明確に分かります。

(1)韓国とアメリカは強固な軍事同盟的関係と政権同士の強い信頼関係があります。

(2)日本とアメリカには民間の経済的協力関係が中心に結びつきが強いのです。軍事同盟的でないし、従ってアメリカ大統領は頻繁に交代する日本の総理大臣を軽く考えています。

これで今回、李明博大統領夫妻が何故アメリカは国賓として招待したかがご理解出来たと思います。理屈にあっている現象なので、私は深く満足いたしました。

韓国人にとって良い事は日本人にとっても良いことなのです。私は嬉しく思います。下に李朝時代の南大門の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。

藤山杜人

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